お金は大切だという、でもよく考えないでもお金というコトバを使って物々交換や他者への行為を置き換えているだけなのにだ、お金というコトバがなければ貴金属は対価の交換に使われ、食べ物自体を分け与える行為をお金というコトバの代わりに行うだけなのではないか、今日価値の有る物と皆が思っていることも、お金というコトバによってそう思っているだけなのかも知れない。
電気をエネルギーとして本格的に使い出してからはまだ百年程しか経っていない、電気を本当にコントロールし始めたのはコンピューターを本格的に使い始めた僅か二、三十年くらいのものなのに、電気のない世界を想像出来ないでいる自分がいる、でも目には見えないのに宇宙の始まりくらいから電気の元である電子はどこにでも在って、恐竜や原人にも電気に触れる機会を自然界から学んでいたはずで、古代の人は電気を使っていなかったとは言い切れない、それくらい身近なもののはずなのに、見えないだけで電気は特別なエネルギーとは今当に考えたくない時に入っている。
ここがどこなのか大体の目安しか分からないまま時間は過ぎていく、だからと言って特に困る感じでもない、何故なら予定をこの後にいくつも入れてはいなくて、多分コンビニに寄ってなにかしら甘い間食を買い、今日発売の漫画雑誌を読み終われば、比較的明るい表通りを歩いて短い帰路にどうか独り歩きの女の子と出くわして前を歩きながらコンビニ袋を最大限に振りながら急ぎ足で追い越すか、それともゆっくり歩いて距離を置いて家の曲がり角にたどり着けるように努力するか迷いつつ家の前までずっとその子と同じコースを歩き家に着くなり洗面所で手を洗い拭き取る間もなく二階へ上がり、鞄を定位置に収めてテレビを付ければ、一日は終り、明日もさして変わらない流れの中に自分はいる。
最初の予想は感覚的に云うと正解の場合と明らかに不正解のどちらかと答えに出ると、結果的には五分五分なんだと不正解にしてしまった自分をなだめつつ、正解と思い込み不正解を導き出したその時の自分もまたどちらへも答えをふれていたはずなのに正解か不正解かは結果についてのみ後悔したり、考えたりさせられる。
シタリ顔のコメンテーターはネットの世界やコンピューターの中の出来事を仮想空間の閉じた出来事の様に扱い、関わる人は現を向いていないリアルな意味を持たない者として話をしている、でも現実は違うし、その世界は常にこの宇宙の片隅にそのコメンテーターその向こうにいる私と同じ地平に存在し、意識しない上にそれらの事実は進んでいく、今現在全て起り続けていて止めようはない、意識や事象は常に現実の上に成り立っている。