年で言うと大きく過ぎて行く感じなのに秒で感じると振り返る隙もない、去年の今頃を思い出してもちっとも思い出す事は出来ないくせに一年は早いなあなどと思うのは、時に対して失礼なんじゃないかとキオスクで瞬間接着剤を売り始めたのを広告しているのを知って、まあ二千十年もこんな感じかなあと思うのだ。
どんなに哲学的なり科学的なりの考え方の元死んでいくとしても越えられない生物としての性には抗えないのだと恋愛的感情を抱いている間は確信するのだ、人は思考のみでは生きられない。
最近母に対して、「ねえ」だとか「あのさ」だけでは先に逝く者ましてや親、「母さん、おふくろ」となんだかいきなりで気恥ずかしくもある言い慣れなさ、なので少し奇妙な母という言い方をねえ、あのさの後に付けてみたりするのだ、当の母親にしてみれば、大して変わらない気もするし「おい息子」と呼ばれるようなものでもあるのだからむしろ馬鹿にしているのかと思っているのだろう、それでも言わないよりは先の長さを気にすればまあいいかとも思うのだ。
雨の日に満員電車で憂鬱な感じになり六億円の宝くじを今日買おうと私と同じように考える人はこの列車には何人かはいるはずで仕事へ行かなくてもよくなるくらいお金持ちになればなあなどと思い、結局一日中雨は止まない上になんだかやる気を削がれるような感じのまま家路について、宝くじを買うことなどすっかり忘れてしまっていて、自分は明日も元気なのかどうかを例えば考えてみたりする。
人の生き死には自分で決められないのに何故か他人には委ねられる場合がある、戦地へいけば自分の預かり知らない爆弾が落ち、銃弾が街中を飛び、病気ならば自然界なら自己治癒以外は助からないはずの人が叡智によって創られた医療技術に延命される、生き死にすら人は意のままにならないはずなのに、生き死にに無頓着な自分のいるを思う。