どうにも眠い、きっと死んでしまうくらい眠い、でも死ぬほど眠くても死んでしまえば眠いこともないはずなので、生きている間は眠気のある状態もしんどいと思う感じも微睡み、いつの間に寝てしまって気が付いた時の少しのすっきり感を知ればまあそれも良しと思うのです。
我慢出来ない出来事に耐えるのは構わない、それで物事に滞りの起こらない場合は、それでも敢えて我慢しなければいけない場合、怒りを露にしたところで事態は好転しないばかりか、かえって悪くなる場合の方が大抵で、やはり怒るのは身体にも悪いし得じゃないと思うのです。
好むととか好まざるとか関係なく出会いと関係性は生きて人と交わる限りは避けるのは無理、先人の残してきた言葉や道具という知識を、思考する行為自体を否定しない限り孤立して生きるなど仙人ですら不可能なはずで、凡人たる市井の者にはただ日々粛々と生きて人という生物に産まれ死んでいくのを考えられることを喜ぶしかない。
頭の中にある不安はちょっとしたきっかけで増幅してしまいには身体に変調を起こす、きっかけは夕刊紙の記事かもしれないし、昔見たニュースなのかもしれない、安全に寝られる場所は世界中ないのは当たり前なのに南の島の穏やかな入り江にも、深山の静かな山小屋にも、自分の家や、高級ホテルや首相官邸でも想像力の中では安眠など出来はしないと考え続けると頭が変になり気がおかしくなるのではないかと思ったりするのだ。
生産者さんのお名前を出して安心感を売りにするのはいいのだが、一体本当にその人たちが実在するのかどうなのか、書き出している人が勝手に一文字変えたとしても読んで安心するほうにしてみれば結局山田さんでも山内さんでも本当のところは良く分からない安心なんだろうとハンバーガーを食べながら思ったりするのだ。