僕が20歳の頃、不動産屋に勤めていた時に、
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です)
走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、
「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」
と思ったというか、そう決めました。
それで僕の仕事はただこれだけを考えて動けばいい、だけだったのです。
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です) 走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく」
そういったお客様をいかにしてつくっていくか。その逆算から僕は仕事をしていました。
僕が考えるのはこれだけでした。
これはアジェンダとも言えるものだと思います。
アジェンダとは、ボーリングでいうと「センターピン」です。センターピンを倒すと、他のピンも倒れて、あわよくばストライクを狙えます。センターピンではなくて、端のピンを倒してしまうと、そこだけのピンとなります。自分の考えるべきことは、「センターピン」のような場所を捉え、そこについて考えて動きたいのです。
竹中平蔵さんがという方が、昔、元首相の小泉純一郎さんに「総理のアジェンダはなんですか?」と聞いたことがあります。
「それが郵政民営化だ」と言われたそうです。
実際そのアジェンダの効果は、今の日本にとても反映されています。「小さな政府づくり」をしたいなら、正解です。それで政治は結果ですから、間違えているとは思います。ですが、アジェンダの効果は絶大であったと思います。
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です)走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」と思ったこと。
ここをおさえておけば、全てがうまくいくと思ったのです。
僕にとってのセンターピン(アジェンダ)でした。
それは自ずといろんなものに波及していくのです。
「こういうものがつくれたら最高だと思います。」
考えるのはそれだけでいいのです。僕が1番いいと思うのは、「考えるのは1つだけにするのです」。
いくつも考えられないじゃないですか。
それにいくつも考えるものがあれば、エネルギーが分散します。
1つだとそこに全部自分のエネルギーを集約することができます。
ぜひアジェンダを持ち、動いていきたいです。「センターピン」を狙いにいきましょう。他のピンも自然と倒れていく(波及する)考えを持ち、動いていきたいです。
ちなみに僕が不動産屋で行っていたことは、たとえば、賃貸情報誌には、他の不動産屋は「築5年!キッチン広い!南向き!セパレート!」等と書いていたのですが、「僕はそんなのどうでもいい、どうでもいい」と思い、僕が書いていたのは、
「ゴースト/ニューヨークの幻の映画はご存知ですか?「モリー、僕はここにいるよ」
そんな声が、聞こえてくるような部屋がここにあります」
「この部屋を借りて、彼女をつくれないなら、彼女をつくるのを諦めろ!」
「世の中はいつもバラ色じゃない。それなりに厳しく辛い事も待っている。」
「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで中身は分からない」
等、そういうのを書いていました。本当ですよ。
ちなみに大ヒットしました。
だから他の不動産屋も真似していました。けれど失敗していました。表面上を真似てもダメなのです。
当時はインターネットができて何年かぐらいで、ホームページもつくっている不動産屋もほとんどいない状況でした。その中で「これからはインターネット時代だ」と思い、早速ホームページに手をつけ、自分で勉強をしてつくって、なおかつ「写真がとても大事だ」と思い、マンションの外観や部屋の写真にこだわり、載せていきました。これも大ヒットしました。
それから「夢を語ろうの会」等を開催したり、農家さんとお客さんをつなげたり、本当いろんなことをやりました。
でもその起点は1つです。
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です) 走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく」そういったお客様をいかにしてつくっていくか。その逆算からの全てです。全部ここにつながっているのです。そして、そうしなければいけないのです。
なぜなら「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です) 走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」と決めた時、その決めたものイコール自分となるのです。
それが自分の雰囲気やオーラや、目に見えないものに現れるのです。あとは自分の言葉にも。それは自分だけではなく、やることにもそういう息吹が込められるのです。
これらは全て「世界観」だと言っていいでしょう。
世界観というのは、たとえばリッツカールトンホテルならリッツカールトンホテルの世界観があります。世界観やコンセプト等があって、それらを守っていると思います。世界観やコンセプト等に「合わないもの」って置かないと思います。世界観やコンセプトに合う「絵」や「美術品」等を飾ったりすると思います。
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です) 走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」と決めた時、それが僕の世界観(コンセプト)となり、それが自分や自分のやるものに影響、息吹を与えていくのです。
その世界観(コンセプト)に、共感共鳴された方が、主な僕のお客様でした。
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です) 走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」と決めたもの、それだけを考えればいいだけなのでとても楽です。
そこから考えて形にしたものはたくさんありますが、考える元は1つです。
だから頭がとても楽です。
これだけを考えたらいいって、まさにシンプル・イズ・ベストだと思います。
これだけを考えたらいいというものを出せて、なおかつそこに共感されるようなコンセプトが含まれていたら最高だと思います。
そういったものを出していきたいと思うのですが、いかがでしょうか?
もう1人、フィル・ロマーノさんという方をお伝えさせてください。
「近所の家にはたいていダイニングルームがなかった。うちもそうである。そのかわり、ロマーノ家のキッチンには特大のテーブルがあって、いつも大勢の家族や友人が集まっていた気がする。
よもやま話に花を咲かせながら、おいしそうに料理をあれこれつまみ、ソースを味わう。どれも、鼻をひくつかせている面々の目の前で母がこしらえたものだ。
母が真っ白なテーブルクロスをかけて、切ったばかりの花を飾る。すると祖父が、一ガロンの大きなカラフェにワインを入れてテーブルにどんと置く。ワインは祖父の手作りで、地下室から出してきた年代物だ。
みんなはおしゃべりの合間に、焼きたてのイタリアパンをオリーブオイルにつけて少しずつ食べる。にぎやかで活気溢れる食事。ときおりいろいろな感情がほとばしり、歓声があがる。居間の古い蓄音器からはイタリアソナタが流れてくる。
心休まる、温かく打ち解けた雰囲気。
「幼い頃のこうした体験を、どうにかしてレストランの形にできないものか。」」
彼は、そんな思いで仕事を始めました。その思いをもとに動いただけです。
その思いが、フィル・ロマーノさんの、明るい未来や素敵な未来の提案であり、コンセプトです。
考えることはこれだけでいいのです。
ちなみにフィル・ロマーノさんは、そこから外食産業で一兆円ぐらい稼がれた方です。そんな彼の世界観は、人々は口々に勧める。「肩の力を抜けよ、フィル。そろそろ休んで、人生を楽しんだ方がいい」「テニスやゴルフ。油絵。バカンスにパーティ。新居の装飾。そういう趣味にいそしんでいればいい」と。
フィル・ロマーノさんは、実のない娯楽に明け暮れる人生に私は興味がないと言います。
「そうなのだ。私の場合、趣味も職業も心から愛することも、『すべて同じひとつのことなのである。』それは、レストランを作り、そこに命を吹き込んで、お客様の暮らしをほんの少し豊かにすることなのだ」と表現されています。
別にテニスやゴルフ。油絵。バカンスにパーティ。新居の装飾等、そういう趣味にいそしんでもいいんですよ。大事なことは、趣味も職業も心から愛することも、すべて同じひとつのことだとつながっていることです。その上で、別にテニスやゴルフ。油絵。バカンスにパーティ。新居の装飾等、そういう趣味にいそしんでもいいと思います。
問題は、趣味や職業や心から愛することが、別々となっている。分離されていることです。
これだと仕事が楽しくないでしょう。それから自分のパワーがない。
「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」という言葉があります。人生は主に2つがあって、それは「何事をもなさぬにはあまりに長い人生」と「何事かをなすにはあまりに短い人生」です。2つの世界が存在します。前者の世界にいることが僕は問題だと思うのです。いや、問題でもなく別にそれも幸せなんですけどね。
「何事かをなすにはあまりに短い人生」の中で生きていて、別にテニスやゴルフ。油絵。バカンスにパーティ。新居の装飾等、そういう趣味にいそしんでもいいと思います。でもきっとそもそもが「何事をもなさぬにはあまりに長い人生」を生きているのかなと思います。その世界はきっと趣味や職業や心から愛することが、別々となっている。分離されてしまっているのです。
それで「レストランを作り、そこに命を吹き込んで、お客様の暮らしをほんの少し豊かにすることなのだ」と、フィル・ロマーノさんは表現されていますが、この「命を吹き込んで」というものが非常に大切だと思います。
それがないと、「レストランを作り、お客様の暮らしをほんの少し豊かにすることなのだ」になります。多分これだとうまくいかないです。
「命を吹き込む」
それでそれが、趣味も職業も心から愛することも「すべて同じひとつのこと」になっている状態で吹き込んだら、それがレストランなら、レストランが光輝くと思います。
まさに僕は、20歳の時に不動産屋に勤めた時に、
「お客様がマンションを出られる時、(主に賃貸です)
走馬灯のようにその街での素敵な思い出が蘇り、
「この街にきてよかった」と涙ながらに去っていく。それをつくり出すのが僕の仕事だ」
と思ったというか、そう決めた時、自分のやることに命を吹き込んだという体感があるからです。
これは本来の日本人の感性だと思います。フィル・ロマーノさんは「日本人らしい」と言ってもいいと思うのです。
ここについて、日経ビジネスから、ジェームス・ロブソンさんの言葉を引用してお伝えさえてください。
「さびつく現場力 磨けば光る『日本流』」です。
苦闘する日本の現場を歩きながら、現場力復権の条件を探っている。
日本が強みとしてきた現場力の低下を指摘する声は多い。
だが、日本に精通する米ハーバード大学のジェームス・ロブソン教授は、日本古来の強さにこそ、現場力復権のカギがあるとみる。
同教授が着目するのは「モノには魂が宿る」という考え方。
「いったい、どういうことか。」
日本人には非常に長い年月をかけて築き上げてきた文化的な「価値観」があります。
例えば、私は毎夏、京都に行きますが、そこで針供養を見るたびに感銘を受けています。
「モノ」は米国では簡単に捨ててもいいモノですが、日本人にとっては単なるモノではなく、精神(スピリット)が宿っているモノなのです。
モノには魂が宿っている、という考え方ですね。
「モノには魂が宿る」という表現は日本的ですね。
ただ、世界を見渡してみると、アフリカや欧州など、無機質なモノに何らかのパワーが宿っていると考える地域はあります。
現在はその風習が薄れていますが、欧州やアメリカ(大陸)でも、石や彫刻などにパワーが宿ると考えられてきました。
でも、日々の生活に使っているモノにまで魂が宿るという考え方は日本特有だと思います。
私たちは日々の生活の中で、非常に多くのモノと関わって生きています。人間らしく生きるためには、道具をただ道具として使うのではなく、美意識や感謝を持って扱うことで私たちの生活や仕事環境は豊かになります。そのことに気づいて、日々、使うペンや紙にまでこだわっている人もいます。
特別な注意を払って作られたモノにはそれだけの価値があるし、人々はそうして作られたモノから喜びや満足感を得るのです。
日本のモノづくりの特徴として面白いのは、自動で作る技術を持っているだけでなく、その過程に何らかの人の知恵を入れることで、製品に特別な「品質」を与える技術も持っている点です。
モノづくりの過程を単に自動化して、機械で同じモノを作るのとは違います。現場において機械化や現代化は重要ですが、そんな中でもこうした古き良きモノづくりの品質も残すといいのではないでしょうか。
世界の人々が尊敬している日本の製品も、技術的にはパーフェクトではないかもしれないけれど、そこに機械が作ったものにはない特別な魅力がある。着物でも木工品でも焼き物でも何でも、マスプロダクション(大量生産)にはない良さがあるから、人々から愛されるのです。
以上となりますが、フィル・ロマーノさんが「命を吹き込んで」と表現されたものが、「魂を宿した」になると思います。
「日本のモノづくりの特徴として面白いのは、自動で作る技術を持っているだけでなく、その過程に何らかの人の知恵を入れることで、製品に特別な「品質」を与える技術も持っている点です。」
これが僕が不動産屋の時におこなった事と言っていいと思うのです。
過程に何らかの人の知恵を入れて、製品に特別な「品質」を与えたんです。
本来コンセプトというのは、そういった要素があると思います。
僕はよく分かりませんが、ブランドにはそういう要素があるのではないでしょうか?
あとアップルの製品等にもそれは感じます。
もう1人、例をお伝えさせてください。それは、江頭2:50さんです。お笑い芸人の方で、好きなユーチューバーランキング2年連続1位。チャンネル登録者数350万人以上の方です。YouTubeを始めた時の伸び率が、ジャニーズの嵐と並ぶぐらい伸びたのです。
「なぜこんな結果が出たのか」を僕はとても気になりました。レギュラー番組も特になく、あまり人気がないように思ったからです。「それなのに、なぜ?」と思ったのです。それで分析を行いました。
すると、コンセプトが「人を救う」でした。
「自殺したい奴がいたら俺を見ろ!自分よりも最低な人間がいることがわかる。死ぬな!死ぬ気なんて無くなる!笑え!」です。
その為にやること。「誰よりも汚く、誰よりも下品で、誰よりもカッコ悪く生きる」というのが芸風だと思います。
「俺のライブに来てる奴らを見てると、結婚はおろか、恋愛もまともにできないんじゃないかっていうような奴ばかり。だけど俺は、そういう奴らにこそ、お笑いをやりたい!!」と言っていました。
そして、スタンスは「目の前で悲しんでいる人を見つけたら何とかして笑わせたい。そのためなら警察につかまってもいい。寿命が縮まってもいい」です。
芸人を続けられた理由は、「99人があきれても、1人が笑うなら俺たちの勝ちじゃねぇか」です。
多くの人が「月曜から仕事や学校に行くのがつらい」と悩み、統計的に自殺者が多い時間帯に笑いを届けたい、という狙いもあって、日曜深夜(月曜未明)2時50分からの配信にはこだわりがあったりね。
きつい状況の方が多いと思うので、そこに対してお笑いをやっているから売れているのだと思います。
多くの芸人さん、芸人に限らずだと思いますが、そんなに考えなくやっていると思うのです。主に「えーい!地位だ、名誉、金だ」みたいなもの。「あの人みたいになりたいぜ!」等ね。別にコンセプトみたいなものってないと思うのです。
ちなみに島田紳助さんみたいな方は、きちんとコンセプトを出されていました。
島田紳助さんが漫才師を目指した時、明石家さんまさんをみて「こっちじゃない」と思い、オール巨人さんをみて「うん、こっちも無理だ」と思い、オール巨人みたいな正統派漫才も無理、明石家さんまみたいな「華もない」
「どうしたらいいんだ!」ということで出したコンセプトが「つっぱり漫才」でした。
もともと自分は不良で、その不良が弱かったら「面白いじゃないか」ということで、自分の強みを活かして売り出しました。
ちなみに、そこに別に自分の思い等はないし「売れたらいい」みたいなもので出しましたので、それで島田紳助さんもわかっていたので、やる前から「もって10年だ」と言っていました。「もって10年だからそれまでに売れてお互いの為に頑張ろう」と漫才の相方の竜介に言っていました。
実際には思っていたより早く「5年」でそれがやってきたそうです。
それで「いつ辞めようかな」と思っていた。やめ時を探していた時に、ダウンタウンが現れて、「これは、あかん、比べられたら負ける」と思って、漫才の引退を決意されたそうです。早速、次の日に辞表を出しました。(相方がいるのに、勝手に)
江頭2:50さんは、どう考えてもやるものに「命の息吹が込められています」「魂が宿っているのです。」
過程に何らかの人の知恵を入れて、製品に特別な「品質」を与えているのです。
それが江頭さんの「芸に宿っている」のです。
それを人は感じるのです。(潜在的に求める人がね)ブランドやスティーブ・ジョブズのアップルの製品等に人が何かを感じるように感じるのです。「受け取る」のです。それは飲食のお店でもあったり、ホテル等にもあります。食堂にもあります。理由は自分でもよくわからないのですが、なぜか惹かれるのです。
江頭2:50さんのやることもシンプルです。
「誰よりも汚く、誰よりも下品で、誰よりもカッコ悪く生きる。そんな俺を見て笑え!」です。
それがコンセプトですから、テレビ番組「プロフェッショナル」というのがあって、「出ませんか?」と声をかけられたのですが、即答で「出ません」と言っていました。理由が、「あれって、かっこよく撮るじゃん。かっこいいのは嫌なんだよ」です。
「絶対に俺は、かっこよく撮れる。だって真剣にやってんだもん」と言っていました。
ちなみにコンセプトのある方の特徴は、「これはやらない」「これはやらない」「これはやらない」というものがたくさんあったりします。それがうまい話なのに、です。
側から見ると「まるで意味不明」「もったいない」「なんで?」と思い、理解ができないのです。でもそういう方って、コンセプトがみえていないのです。だから動くのです。手を出すのです。
その結果「コンセプトがボコボコになる」「その人の世界観が無くなる」ことになるのです。
すると結局、コンセプトみたいなものがあってもそれが無くなったりしますから、今までそこについてきてくれたお客さんがいなくなり、「いつのまにかやっていけなくなる」のです。
それで目先の利益は手にしますから、そこで新たなお客さんを獲得するのですが、そういうお客さんは、流動的ですから、いつのまにか去っていくのです。流行り廃りで動く人々なのです。
ここはだから島田紳助さんも漫才をやっていた時、相方の竜介さんによく言っていたのが「目の前のキャーキャー騒いでいる若い女を笑わせにいくな」でした。
「こいつらは必要だ。人気があるようにみせてくれる。それで、そいつらを笑わせることは簡単だ。だから他の奴らはそいつらを笑わせようとする。でもそうなったら、テレビの向こう側でコタツでみている兄ちゃんたちが「なんやこいつら」と思って、そっぽを向くようになる。すると芸人として終わる。俺らの相手は、目の前の若い女じゃなく、テレビの向こうで、コタツでみている兄ちゃんたちだ」と。
手を出してはいけないものがあるのです。なぜならコンセプトが崩れるからです。世界観が崩れていくからです。
それを自然とコンセプトが明確な人は、「やらない」「やらない」とやっているのですが、ない方って、いとも簡単にその境界線を踏み越えていくのです。
そしていつの間にか困っているという状態になっていたりするのです。
主にそれが「損得や打算の世界」にいると、そうなってしまうのです。
自分の真善美を守っていく。それが自分のコンセプトや世界観を守るものとなります。
それで、僕の文章を読んで、感想を送ってくれた方が、こんなことを言ってくれました。
「コンセプトがきちんと出来ていれば、仕事をしていく上でのあらゆる問題は解決していく。」
これは仕事だけでなく、自分の生き方のテーマでもあり、どこにいても歩むべき方向を示してくれる羅針盤のような存在で、仕事を始めようとするこの時期にこの事を知る事ができて本当に良かったです。感謝です。と。
コンセプトをこんなふうに感じてくれたら、それは「大正解」だと思います。
ぜひあなたもものにしていただけたらなと思います。
僕らは「ノウハウや目に見えるもの」にどうしても囚われやすいです。方法、メソッド等にね。だけど「HOW・WHAT」は、環境、条件が変わればなんの役にも立たないことがあるのです。ある前提や、条件下で発動をするのです。
それでなかなか使えないのは、環境や状況等は人それぞれ異なるのです。
だから、本を読んでもなかなか人の人生が変わらないのは、1番はそのせいです。
環境等が変わっても役に立つのが「HOW・WHAT」ではなくて、「WHY」です。
「HOW・WHAT」は、「何をやるのか、どのようにやるのか」等です。そこの誘惑はとても強いでしょう。「私の好きなことややりたいことは・・」や「何をやれば私はうまくいくのか」等を人は考えやすくないでしょうか?
それから、「どうすれば私はうまくいくのか」等を考えて、人は彷徨ったりしませんか?
「まだ何か私の知らない情報や知識があって、それを知ればうまくいく」や「何か上手いやり方をすれば、うまくいく」や「何かうまい言い方」等ね。
どのようにやるのかを考えてしまっているのです。どのようにやるのかを考えるのは、やり方等さえわかればうまくいくと思っているのです。それか、魔法みたいなものがあると思っているのです。もっと言えば、「なにかのものが私を素敵なところに連れていってくれると思っているのです。」
結論、「連れていってくれません」です。
これは、わかることは非常に価値が高いと思います。
経営の神様と呼ばれた松下幸之助さんが「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」と言っていたのですが、それが僕は「HOW・WHAT」から「WHY 」への移行だと思います。そこに気づいた価値は、百万両です。
何百冊、本を読もうが、どれだけ何百万円もセミナーや講座に注ぎ込もうが、たまにびっくりするほど、失敗している方っていると思うのです。なぜそうなるのかと言えば、「連れていってくれる」と思っているからです。
通常はありません。
読んだ1冊目の本や行ったセミナー1つで、人生が変わります。
これが本来の姿でしょう。
その選ぶ基準は「直感」でいいのではないでしょうか?
問題は、「HOW・WHATの世界にいること」です。
「WHY」とは、なぜです。
信頼していいのは、「WHY」です。
「HOW・WHAT」の世界は、疲れると思います。もっと言えば、生き苦しさ等を感じられるかもしれません。とても複雑なのです。
「WHY」がないと無法地帯にもなります。それに、うまくいっても幸福感が下がるのです。(うまくいった方はわかると思います。)
「WHY」とは、とてもシンプルな世界です。
そして、「WHY」が出れば、自動的に「HOW・WHAT」が生まれるのです。
実際、僕の不動産屋での体験等はそうなっていないでしょうか?
「WHY」のこたえを出したのです。
「HOW・WHAT」から人生を始めてしまうと、本当に残念な人生になってしまうことも多いのです。
「HOW・WHATの世界」から「WHYの世界」へのご招待をしたいのです。
「WHY」のこたえは、本質的に人を惹きつけるもの。これがあればいいです。
人っていってもたくさんじゃなくていいのです。「誰かを惹きつけられるかどうか」です。たとえば、子供が「お母さん、それいいね」と言ってくれたらそれでいいのです。
ちゃんと人を惹きつけるものがあるのかどうか。
誰かを惹きつけるものならば、それは「財産」です。
「WHY」のこたえは、自分の財産です。
「HOW・WHAT」から、導かれないこと。
「WHY」から、導かれることです。
本質的に人を惹きつけるものの、多くは「WHY」から生まれます。「WHY」から導かれていたら、大体は、本質的に人を惹きつけるものにあてはまると思います。
本質的に人を惹きつけられないものの多くは、「HOW・WHAT」から導かれています。
「HOW・WHAT」は、主にそれが「損得や打算の世界」です。
「WHY」とは、主にそれが「真善美の世界」です。
「WHY」から導かれていて、それが「誰かを惹きつけられるかどうか」があれば、もうまくいくことは確定なのです。
進む道は、うまくいく道です。
その中で、「お客様に満足していただくや感動していただくやそういうレベルに達していく努力や、あとはそのものが人に伝わるようにする」等、そういう努力は必要となりますが、うまくいく道を歩んでいます。
こういうのが、たまに人がやっている「根拠のない自信」となっていたりもします。
妙に自信を感じているのです。その人は、うまくいく道を歩んでいるのがわかっているでしょう。その道にいて、それを感じているから、そう思うのです。
「これだけを考えたらいい」というものを出していく。
そして、それがコンセプトを含んでいれば最高だと思うので、コンセプトの話も少しお伝えさせていただきました。
情報多々で、意識が分散しやすい時代だからこそ、「大切なものを一つこたえを出して、それについて考えていったり、深めていったり、それから戦略を出して、どんどん動いていったりするけれど、考えるものは1つである等、そういうことが必要ではないのかなと思います」