「一流の経営者とは、親が泣いて喜ばせられる人のこと」だと僕は教わりました。
一流の経営者は、「一流の人間」とも言い換えられると思います。
「一流の経営者(人間)とは、たくさんお金を稼いだ人じゃない。親が涙が止まらないくらい喜ばせられる人のことだ」と、日本で1番お金を稼いだ女性が言っていました。
親が望むのは、「子供の幸せ」だと思います。
「幸せであるならそれでいい」と。
それで「子供の幸せはこうって親が思うもの」と「子供が望む幸せ」が一致しないことがあるから、時々問題が起きたりすると思うのです。一致していれば何も問題がありません。
どちらを優先させればいいかは、親ではなく自分の方ですね。
親が気に入らないことがあっても、最終的に「幸せに生きているなら、満足したりしますから」
それで最低限の親孝行は「自分が幸せになること」でしょう。
僕は小さい頃に思っていたのは、親が不幸になっても、自分が幸せになればそれでいい、です。(非常識ですみません)
自分が幸せなら、親もきっと幸せです。それが「親」ってものです。
他人はそうじゃないですよ。
だから、貪欲なまで、自分が幸せになる努力をして手に入れたらいい。その為なら親を無視してもいいだろうし、不幸にしてもいいぐらいです。
自分がたとえ不幸になっても、子供が幸せになるならいいと思うのが、親でしょう。だから、たとえば家が地震となって、上から何か重いものが落ちてきたら、子供をかばって、自分が上になって、守ろうとする。
これって自分が不幸になっても、子供を幸せにしようとしています。
どうでもいいおっさんの為にはやらないと思うのです。自分の幸せを優先して、逃げるはずです。
自分が幸せになる為なら、親を無視してもいいだろうし、不幸にしてもいいぐらいです。
その逆は、親の幸せの為に自分が犠牲になる、でしょう。
「どちらかしかとれないなら、前者をとりたい」
(もちろん、両方とれるのがベストでしょうが)
後者は、親孝行を履き違えていると思います。
まずは自分幸せになる。それが最低限の親孝行。
次に向かうべきところは、「自分が、たくさんの方に喜ばれることです」
なぜか自分の子供が、人に喜ばれたり、感謝されている姿をみたとき、親は「涙を流したりします」
「私が求めていたのはこれだった」と思ったりします。親も気づいていないみたいなね。
はじめての子育て。間違いもある。失敗もある。不安や恐怖もある。
それで、子供が人様に喜ばれている姿をみて、親はこう思ったりするのです。
「私の子育ては間違いなかった」と。
どこか親はあったりするのです。
「私の子育てあっているのかな」とかね。「間違ってたんじゃないかな」とかね。
申し訳なさとかね。
でも「間違いではなかった」「間違えてはいなかった」と親は思う。
まるで生きていながら、成仏をする感覚を覚える。
親も自分が気づいていないから、言えないのです。
「そんなことを子供に求めているなんて、わからないのです」
そりゃそうで、自分がやってないからでしょう。
「まあ、幸せに生きてくれていたらいいわ」ぐらいなのです。
だけど多くの親が本当に望んでいるのは、「人様に子供が喜ばれていることなのです」
だからこその反面で、「人に子供が迷惑かけていたり、傷つけたりしていると悲しいんですよ」
そういうところにヒントがあったりします。
それで本当は「人に迷惑かけるな!」というよりも、「人を喜ばせにいけ!」といった方が、いいと思います。
本当に自分の望んでいるのは「人に迷惑かけないこと」ではないです。
本当に自分が望んでいるのは「人に喜ばれること」です。
自分の子供が「人に迷惑かけていない姿」をみるより、「人に喜ばれる姿」をみる方が楽しくないですか?
おもしろくないですか? 嬉しくないですか?
「本当に望むことが、なかなか自分もわからないというね」
本当に自分の望んでいるのは「人に迷惑かけないこと」ではないです。
「もっと欲張っていいのです」
「もっと望めばいいのです」
お釈迦様が言いました。「大欲は善である」と。
「子供が人に迷惑かけない姿をみても、別に感動はしないです」
もっと自分が感動するものを願えばいいのです。
「言えばいいのです」
どうせやるやらないは、本人が決めることなのですから。
迷惑かけないことは、まあ「安心」ですよ。
「安心」が1番下です。次に「満足」です。1番上が「感動」ですから。
「自分が、たくさんの方に喜ばれることを目指す」
それで、自分が喜ばれたりしたものは、「全部親や祖父母等の手柄にすればいいのです」
「あなたの力です。あなたのおかげです」ってね。
「あなたの子育ての成果です」ってね。
「幸せであればいい」と親は思う。それでそれ以上ってなんだろうと思ったのです。
金を渡しても別に喜ばない。ものを渡しても微妙。
何が喜ぶんだって思ったら、「子供が人様に喜ばれていること。感謝されていることかな」と、直感的に思ったのです。
それで、それはあたっていました。
これは他の親にもあてはまると思うのです。
(実際、これを伝えた人はそうなっていました)
それで、本当は人生は「親孝行」だけを考えるだけでいいのかもしれません。
最低限の親孝行を目指し、手に入れて、最高の親孝行を目指しにいく。
それで「その中で動いていたら、どんどん自分が幸せになります」
「親孝行」に向かわないから、幸せになれないだけかなと思います。
それか「親孝行」自体そのものを間違えているのです。
本来は、「親孝行」に向いて歩んで行けば、自分が幸せになるのです。
ただ「親孝行」を目指せばいいと僕は思うでした。