日(ひ)出(い)ずる処の天子、書を日(ひ)没(ぼっ)する所の天子に致す――。
これは、推古天皇がこの国を治めていた607年に、かの聖徳太子が当時の中国皇帝「隋」の煬帝(ようだい)に使節を派遣した際、日出ずる処の天子、すなわち日本の天皇が日没する所の天子、つまり中国の皇帝へ送った有名な国書の一節です。
この国書の歴史的意義について述べる前に、当時の日中関係を振り返ってみましょう。
まず5世紀の「倭の五王」の時代には、日本の大王(天皇)が中国皇帝(南朝の宋)の臣下に甘んじ、その威光によって国を治めようとしていました。
ちなみに、『宋書倭国伝』に讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の5人の倭王が宋の皇帝の臣下となるべく使節を送ってきたと記載されています。
その5人の倭王が「誰か」は古代史の謎の一つにもなっていますが、筆者は「讃=応神」「珍=仁徳」「済=允恭」「興=安康」「武=雄略」の各天皇だと推定しています。
そうした5世紀の状況と比べますと、聖徳太子が派遣した使節は、それからたった1世紀半で中国に対等外交を望めるようになった証しとして高く評価されてきました。
このとき使節として派遣された小野妹子(おののいもこ)の名とともに、この遣隋使派遣は歴史の教科書にも記載される日本史の常識です。
ところが、日本側の代表的な史料である『日本書紀』(以下、『書紀』)に遣隋使を派遣したと掲載されていないのみならず、派遣した国は「唐」になっています。
このため、「聖徳太子が派遣したのは遣唐使だった」という説があります。
日本史の常識である「聖徳太子の遣隋使」は本当になかったのでしょうか。
(つづく)
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