山科言継という公卿の日記にも「大講堂、(根本)中堂、谷々の伽藍ことごとくこれを放火す」とあり、やはり考古学調査の結果と矛盾しています。
信長は全山焼き討ちしたのか否か――その真相を探るべく、まず焼き打ちに至る流れを確認しておきましょう。
元亀元年(1570)8月、信長に抵抗する三好三人衆が大坂の野田・福島城(大阪市福島区)を拠点に蜂起し、信長はすかさず摂津入りしました。
信長は両城へ猛攻を加えますが、9月に入って大坂御坊(のちの大坂城)に拠(よ)る本願寺が包囲網に加わりました。
本願寺は当時、かなりの武力を擁していたいましたから、信長は大坂から動けなくなってしまいます。
この隙に乗じ、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政勢が3万の大軍で南近江の志賀郡へ進軍してきました。
そこには信長が築いた宇佐山城(滋賀県大津市)があり、森可成(信長の小姓・森乱丸の父)が城主についていました。
信長はその可成どころか、弟信治まで戦死させ、さらに朝倉・浅井勢は南近江から京を窺う姿勢をみせたのです。
信長はこの近江の敵を重視し、9月23日、大坂からの撤退を決意し、翌日には下坂本(大津市)へ陣を張りました。
これで南近江における織田勢と朝倉・浅井勢との形勢は逆転するかにみえましたが、朝倉・浅井勢は比叡山へ逃げこんでしまうのでした。
信長にしたら、敵は卑怯にも自身の留守を狙って京近くまで攻めこみ、信頼する家臣(可成)と弟の命を奪った仇敵。
憎んでも憎みきれない信長は、山上に逃げこんだ彼らの糧道を断とうとしたのです。
(つづく)
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