平賀源内が「発明家」でなかったなら、いったい何者?②[日本初の物産展] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 「御神酒(おみき)天神」の仕掛けはこうです。

 

 まず天神様の顔の部分を透明にし、背後の赤く塗った紙を動かすと、お酒を飲んだように天神様が赤くなるというものでした。

 

 その後、いったん源内は父の跡を継いで蔵番になりましたが、本草学(薬学)への興味を捨てがたく、妹に婿養子を迎えて平賀家を継がせると江戸へ出て、当時、本草学の権威とされた田村藍水(たむら・らんすい)の門下となりました。

 

 昌平坂(しょうへいざか)学問所(文京区)に寄宿して漢学や儒学も学び、30歳のときには江戸湯島(同)で薬品会を開くまでになりました。

 

 主催者は師匠の藍水ですが、発案したのは源内。

 

 主に薬種問屋から薬を中心にした物産を一堂に集めた催しで、これが日本初の物産展といわれています。

 

 2年後、今度は源内が主催者となり、より大規模な物産展を催しました。

 

 このとき、大判の引札(ひきふだ=広告用チラシ)を全国各地の関係先へ配ったアイデアも注目できます。

 

 こうして物産展の催しを通じ、彼の興味は本草(薬品)から希少な物産へ広がってゆきました。

(つづく)

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