慶喜は参与会議や四侯会議で諸侯をわが意に従わせています。
その意味では、戦国武将らを従わせて天下をとった家康に比肩するという見方はできるでしょう。
慶喜がいなければ幕府はもっと早く倒れていたはずです。
しかし、そう簡単に彼の思い通りに事は運びません。
このとき薩長はかつての宿怨を超えて同盟を結び、密かに西洋式の軍備を整えていたからです。
大久保・西郷らは兵庫開港問題で失敗した結果、もはや、慶喜を政治の一線から引き下ろすには武力討幕しかないと腹を固めました。
その討幕路線も、慶喜が大政を朝廷に奉還すると表明し、10月15日に朝廷がそれを受け入れますと、封じこめられる形となりました。
しかし、薩摩を中心とする討幕勢力はすかさず次の手を打ってきました。
12月9日に実行したクーデターです。
薩摩は、幕府を廃止し、その受け皿としての新政権樹立を狙い、皇居の内外を藩兵などで固め、慶喜の参内を阻止する間にすべて決めてしまおうとしたのです。
その日の会議では予定どおり、摂政関白などの朝廷の旧制度と幕府が廃止されました。
公卿の岩倉具視が天皇の前で王政復古の大号令を読み上げ、新たに政治を担う三職(総裁・議定・参与)も置かれました。
しかし、慶喜は事前にこのクーデター計画を知っていたのです。
(つづく)
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