つまり、これまでノーマークだった源頼朝も、源頼政の残党狩りをおこなう平清盛の視界に入り、残党ともども追討されかねない状況となってしまい、窮鼠猫を噛むの例えどおり、追いこまれて挙兵に至ったのだと著書(下記を参照にしてください)に書きました。
その後、6月27日には京で大番役についていた三浦義澄(「鎌倉殿の13人」のひとり)と千葉胤頼が関東下向の途次、伊豆に立ち寄って頼朝と密談しています。
三浦・千葉両一族がのちに頼朝の挙兵を支えることを考えると、三善康信の使者から危急の知らせを受けた頼朝が2人と密談した6月末に具体的に旗揚げの準備をはじめたとしたら、残りは1ヶ月半。
それくらいの準備は必要ですから、空白の謎は消えます。
頼朝が旗揚げに定めた8月17日は三島大社の祭礼にあたっていました。
そのため館の警備が手薄になり、頼朝勢はその日の夜、北条時政・義時父や土肥実平、佐々木定綱・経高兄弟ら総勢80騎ほどの小勢で平氏の目代である山木兼隆と後見人である堤信遠の館を襲い、ここに、10年にも及ぼうとする治承寿永の内乱の火蓋が切っておとされるのでした。
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