「西の渋沢」と呼ばれる男「五代友厚」の謎②[薩英戦争で捕虜] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 天保6年(1835)、彼は薩摩藩士で儒者兼町奉行の五代直左衛門秀堯の次男として生まれました。

 

 開明的な藩主だった島津斉彬の影響を受け、21歳で長崎伝習所の伝習生となって幕臣勝海舟らと航海・測量術などを学び、その時代にイギリス商人グラバーらと知り合ったことが彼の人生をづけます。

 

 文久2年(1862)には幕府が上海へ市場調査のために派遣した使節の船「千歳丸」の水夫として潜りこみ、生麦事件(薩摩藩士による殺傷事件)の賠償を求めたイギリス艦隊が横浜を出帆したという知らせを聞き、翌年6月、急きょ薩摩へもどりました。

 

 彼は蒸気船「天祐丸」の艦長とし、松木弘安(のちの寺島宗則)と鹿児島の守りにつきましたが、7月になって、五代の船をはじめ、薩摩藩の3隻が宣戦布告のないままイギリス軍に拿捕され、松木とともに捕虜となってしまいます。

 

 薩摩藩は曳航されていく3隻を確認し、沿岸の砲台が火を噴き、ここに薩英戦争が勃発します。

 

 このときイギリスのクーパー提督から薩摩の実力を聞かれた五代が、

 

「わが藩は武をもって鳴り、陸士一〇万の鉄騎は一人として生を欲する者はいない」

 

 と答え、クーパーは上陸作戦を断念したと五代の伝記にあります。

(つづく)

 

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