後白河法皇や院の近臣らは、院庁下文まで与えた源義経の挙兵が失敗し、そこへ源頼朝の代官として北条時政が京へ乗りこんできたのだから、戦々恐々でした。
事実、11月28日付の『玉葉』は、時政が公卿の吉田経房と会った事実を伝え、時政が朝廷に重大な事を提案してくるのではないかと警戒したのです。
実際に時政はこのとき、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に地頭の設置を求め、それらの諸国から反別五升の兵粮米の徴収などを要請しました。
義経を追討するための費用に充てるためです。
つまり頼朝は、法皇が義経に加担したという弱みを握り、義経追討の名目で地頭の設置を求めたわけです。
こうして法皇は、頼朝に御家人らを守護職や地頭職に補任する権限を与えます。
これを「文治の勅許」といい、以上が通説でいう「守護地頭制」のはじまりとなります。
しかし、このときに設置されたのは国単位の地頭、すなわち「国地頭」であって、荘園単位や国衙(地方の国に設置された政庁)領の一部に任じられる地頭ではなかったということが次第に明らかになってきました。
(つづく)
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