上杉謙信は本当に「敵に塩」を送ったか?②[『上杉家御年譜』と『武将感状記』] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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『上杉家御年譜』(以下『御年譜』)によりますと、氏真はみずから武田の領国である甲州と信州への塩留めを行うとともに、舅の北条氏康に内議を通し、北条領国の相模・武蔵から、武田の領国である西上野へも塩を留めました。

 

 

 『御年譜』はこう続けています。

 

「甲州・信州・西上州(武田領国)塩留ありければ、三箇国の諸民困苦に及ぶ。(謙信の)越後へも氏真より飛便(急使)をもって塩権の儀(塩留めのこと)を頼まれけれども、管領(謙信は関東管領に任じられていた)の思(おぼ)し

 

 

召しには、信玄所領に塩留をせば、万民の辛酸尋常にあるべからず。氏真の手段もっと浅薄なり」

 

塩留めに協力する旨、伝えられた謙信ですが、罪のない武田領国の民衆を苦しめる氏真の策略を痛烈に批判しています。

 

甲州・信州・西上州は海に面しておらず、生活必需品である塩は他国に頼るしかないからです。

 

さらに謙信は続けて、

 

「信玄と弓矢で争うことは一切厭わない。しかし、仁道に背くことになる塩留めを承引することなどできようか」

 

 といい、家臣を召して、敵の信玄へ「塩を送れ」と命じたというのです。

 

 結果、敵国の民衆は謙信を「邪道なき大将」と称し奉ったといいます。

 

 『武将感状記』にも同じような話が掲載されています。

 

 今川と北条が謀り、塩商人を足留めして甲州と信州へ塩を入れさせなかったといい、ここでも謙信は領国内の駅路に命令を下し、塩を甲信地方へ送らせたとしています。

(つづく)

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