五ヶ国の主という意味で「五州太守」と称した隆信は、たしかに一代の英傑といえます。
しかし、その隆信も晩年は酒食に溺れ、肥満して馬にも乗れなかったと伝えられています。
天正一二年(1584)には、大友氏の凋落によって、九州で龍造寺勢が敵対する大勢力としては薩摩の島津だけになっていました。
ところが、隆信は、沖田畷の合戦(島原市)で島津勢らを前に、あえなく討ち死にしてしまうのです。
当時、筑後の柳川城を与えられ、筑後の安定につとめていた直茂は龍造寺家臣団の動揺を鎮め、宿敵となった島津の侵攻をおさえました。
一方、直茂は隆信敗死の前から織田信長・羽柴(豊臣)秀吉という中央勢力とも通じていました。
そこで直茂は上方へのぼり、秀吉に支援を乞います。
そうして天正一五年(1587)、秀吉の九州侵攻、つまり、島津討伐がはじまりました。
このとき、龍造寺家を継いでいた政家(隆信の嫡男)は、父の仇を討つべく先陣を買って出ます。
秀吉は、隆信の母で直茂の義母にもあたる慶誾に、
「島津一類の首を刎ねてみせるつもりだから、鬱憤をお晴らしなさい」
という手紙を送っています。
(つづく)
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