信長が光秀を信頼していたからこその密命だと考えています。
信長が光秀を信用している例はいくつかあります。
たとえば、変の二年前に信長は「日向(光秀)が働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎(秀吉)……」といって、当時、異例の出世を遂げていた秀吉より光秀を高く評価しています。
だからといって、以上の説を一方的に主張するつもりはありません。
重大な欠陥があるからです。
そもそも、信長はなぜそのような卑怯な手段を使ってまで家康を葬り去らねばならなかったのでしょうか。
義弟の浅井長政(旧小谷城主)をはじめ、信頼していた相手に裏切られ続ける人生に倦み疲れ、信長が疑心暗鬼に駆られるようになって、同盟相手の家康でさえ信用できなくなったのでしょうか。
それではあまりに観念的で説得力に欠けます。
もう一つ、次のようにも説明づけられています。
信長が三河の徳川と同盟(清洲同盟という)を結んだ理由に、甲斐・信濃・駿河の武田家の脅威があり、徳川にその防波堤役を期待したわけですが、この年、天正十年(1582)三月、その武田家が滅亡。東の脅威が消え、織田家にとって徳川家の存在意義がなくなったのと同時に、徳川が武田に代わって織田の脅威になりはじめます。
もっともらしい理由のように思えますが、それでもまだ納得できません。
(つづく)
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