徹底検証! 「本能寺の変」前後の「信長・光秀・家康」の動向⑪[森蘭丸からの急使] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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天正十年(1582)六月三日には本能寺で茶会が催される予定だったと考えています。

 

徳川家康はその茶会に招待され、堺から上洛する途次、本能寺の変の詳報を知り、慌てて本国の三河へ逃げ帰りました。

 

明智光秀によって織田信長が弑逆(しいぎゃく)されなければ、信長も三日には本能寺で茶会の主人となっていたし、客として家康も招かれていました。

 

以上はこれまで述べてきた根拠に基づく話です。

 

そして、光秀自身、信長から本能寺へ来るように命じられていたと考えられます。

 

つまり、三日、本能寺に三人が勢揃いする予定だったのではないでしょうか。

 

川角(かわすみ)太閤記』には、

 

「京都森お乱(森蘭丸)より、上様(信長)御諚には、中国への陣用意出来候はゞ、人数のたきつき、家中の馬ども様子御覧なさるべく候間、早々人数召連れられ、罷り上り(そうら)()と、お乱(蘭丸)所より飛脚到来候」

 

とあります。

 

信長の側近・森蘭丸からの飛脚で「上様が明智軍の人馬の陣容をまじかでご覧になりたいと申されています。中国への出陣の準備が整い次第、上洛なされよ」

 

という文意になります。

 

 光秀は羽柴秀吉の加勢で中国方面へ出陣する前、軍勢を率いて上洛し、本能寺へ立ち寄ることを命じられていたのです。

 

 なぜ信長はそんなことを命じたのでしょう。

 

「明智軍の人馬の陣容をまじかで見たい」というのは明らかに口実です。

 

 ここから先はあくまで仮説ですが、「信長は光秀に本能寺で家康を討て」と命じていたのではないでしょうか。

 
 その根拠について述べさせていただきます。

 

 

(つづく)

 

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