「男」か「女」か?―大河ドラマ『おんな城主直虎』の実像⑦[徳政令を巡る対立] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 通説では、次郎法師が「直虎」を称したとされ、「次郎直虎」と署名し、花押を捺した文書も残っています。
 
 徳政令を巡る文書です。
 
 永禄十一年(1568)十一月九日付で「次郎直虎」が関口氏経という今川氏真の家臣と連名で井伊谷の祝田(ほうだ)郷へ発給した書状です。
 
 それによりますと、こういう内容になります。
 
「永禄九年(1566)に氏真様が徳政令(借金を棒引きするという命令)を出したところ、本百姓らにカネを貸しつけている銭主(新興商人)がその実行を渋っていたが、氏真様のご命令のとおり、徳政令を実行するようになった」
 
 当時、井伊谷のある遠江は、今川の領国ながら、徳川家の侵攻を受け、氏真はその対応に苦しんでいました。おそらく、動揺する領国の安定をめざし、いまば”人気取り”のために徳政令を実行しようとしたのでしょう。
 
 ところが、このころ、井伊谷城の城主となった井伊次郎法師は今川家と逆に、本百姓らにカネを貸しつけている新興商人を保護する政策をとり、今川家と徳政令を巡って対立していたようです。
 
 しかし、今川の家臣である氏経とともに、次郎法師が上記のような書状に連署させられているわけです。
 
 つまり、徳政令を巡る井伊と今川の対立は、徳政令を実行するという書状にサインさせられた次郎法師(井伊家)の敗北に終わったことを意味しています。
 
 そもそも井伊家は今川家に従属し、家臣という立場にあった家ですから、主家と対立することに疑問を抱かれるかもしれませんが、前述したとおり、遠江は動揺しており、この書状の翌年、今川家は事実上滅亡してしまいます。
 
 しかし、この書状によって井伊家は今川家に屈服し、次郎法師は城主としての地位を剥奪されたことになるわけです。
 
 そして、井伊家の重臣である小野但馬守が井伊本家に代わり、井伊谷を「横領」したと『井伊家伝記』は綴っています。
 
 以上の解釈が通説です。
 
 ただ、この「次郎直虎」と署名した書状には問題があります。
 
 次郎は井伊家の惣領名です。つまり井伊谷城の城主となる人の幼名として代々使われてきました。
 
 例の書状に「次郎法師直虎」と署名されていたのなら、「次郎法師=直虎」と考えて問題はありませんが、そこには「次郎直虎」としか書かれていません。
 
 もし「井伊次郎法師」とは別に「井伊次郎」と名乗る人物がいたとしたらどうでしょうか。
 
 

(つづく)