秀吉も実子とされる秀頼が生まれてすぐ、秀次の追放を決意したわけではないでしょう。
秀頼が生まれた文禄二年(1592)の十月、秀吉は、秀次に対して、
「御拾様(秀頼の幼名)と(秀次の)姫君様御ひとつになさせられ候」(『駒井日記』)
と、生まれたばかりの秀頼に秀次の娘を娶せ、融和を図ろうとしています。
しかし、その一方で、その翌月に秀吉は、秀次の直轄領である尾張へ鷹狩りに出かけ、
「尾張国内、在々すいびせしめ、田畠荒候体(=尾張国内の田畑は衰微し、荒れ果ててしまっている)」
などという文書を発し、秀次の治世に難癖をつけているのです。
悩んだ末、秀吉は粛清を選択したのでしょう。
そこで秀次に“殺生関白”という汚名を着せ、さらには謀叛の罪をデッチ上げたのではないでしょうか。
秀次が切腹した直前の公卿の日記(『言経卿記』)にも、
「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)と去る(七月)三日より御不和なり。この間種々雑説これあり」
と、両者が不和になった噂が記述されているだけで、具体的な謀叛の内容には触れられていません。
また、正親町上皇の服喪中に秀次が鹿狩りに興じていたとされる文禄二年六月八日、同じく『言経卿記』の記述によって、その日秀次は聚楽第(関白の政庁)で酒宴を張っていることが明らかになっています。
秀次の不行跡の大きな証拠も、嘘であったことがわかります。
こうして汚名と無実の罪を着せられ、どうすることもできなかった秀次が秀吉へ精一杯の反抗をおこなうには、切腹命令が下る前に自身の命を絶つしかなかったのでしょう。
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