安政4年(1857)、西郷はいったん鹿児島へ帰るものの、すぐさま江戸出府を命じられます。
当時、江戸の政界では次の将軍を誰にするかで紀州派と一橋派が政争を繰り広げていたからです。
斉彬には、水戸徳川家出身の一橋慶喜(のちの十五代将軍)を擁し、幕府の改革に乗り出す野心がありました。
西郷は、斉彬が江戸城大奥へ十三代将軍家定の妻として送りこんだ篤姫(斉彬の養女)との連絡役をつとめ、慶喜の将軍擁立へ奔走します。
しかし、大老に就任した井伊直弼によって、十四代将軍は紀州藩出身の徳川家茂と決定してしまいます。
こうして慶喜擁立の芽を断たれた水戸藩・薩摩藩らの慶喜擁立派は、朝廷を巻きこんで巻き返しを図ろうとしました。
ふたたび鹿児島に戻って斉彬の指令を仰いだ西郷は、公卿の近衛家や他の諸侯の間を周旋してまわり、斉彬も藩兵を率いて上洛する姿勢を見せます。
ところが、朝廷工作中の西郷は京で信じられない情報を耳にします。
鹿児島にいる斉彬が急死したというのです。
西郷の悲嘆は想像にあまりあります。
一方、話はさかのぼりますが、西郷が安政元年、江戸へ出府した早々のことです。
斉彬が重い病いにかかり、西郷が主君の病気平癒を目黒不動に祈願したことがありました。
そのとき西郷は次のような願文を捧げます。
(つづく)
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