討幕計画だったのか?「慶長遣欧使節団」の謎(最終回)[討幕の密命] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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太平洋横断はもともと幕府によって計画されていましたが、幕府の建造した船は暴風雨に遭って難破してしまいます。


その幕府の計画を引き継いだのが政宗でした。


寛政(かんせい)重修(ちょうしゅう)諸家(しょか)()』によりますと、政宗は幕府の船手奉行である向井忠勝とはかり、新たに船を建造したとあります。


しかし、伊達家だけで西洋式の帆船を建造するのが難しかったらしく、幕府から「仙台へ大工共下され、満足し給う」と、忠勝にそのことを謝する書簡も残っています。


さらに、使節団の中に、その幕府の船手奉行の配下の者も加わっていました。


一方、使節派遣の目的のひとつがメキシコとの通商であることはたしかですが、その一方で政宗は、スペインの力を借りて幕府を倒す陰謀をめぐらせていたともいわれています。


実際に宣教師アンジェリスの書簡には、政宗の陰謀を窺わせるようなくだりもあります。


政宗にまったくその気がなかったといえば嘘になると思います。


政宗が通商交渉の裏側で、倒幕についてスペイン国王の協力を得ようとしていた可能性は否定できません。


幕府は伊達家に太平洋横断という無理を突きつけましたが、政宗もその幕府の要請を逆手に取り、あわよくば幕府を倒せるのではないかという夢を思い描いたのではないでしょうか。


常長という人物は、そういう裏交渉の才に長けていたのかもしれません。


しかも彼は中級家臣であり、罪人の子でもあります。


討幕の陰謀が失敗しても藩にとって影響は少ないと考えたのでしょう。


また、常長の追放処分を撤回する条件として、密命の秘匿を約束させたとも考えられます。


そのことは、常長の帰国後、彼が使節の代表だったにもかかわらず、伊達家の記録がほとんど彼の行動を無視しているところにも現われています。


こうして裏交渉に失敗した常長は帰国後、政宗に迷惑がかからないように逼塞して暮らしたのではないでしょうか。





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