討幕計画だったのか?「慶長遣欧使節団」の謎①[使節団の栄光と挫折] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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いまからちょうど四百年前の慶長十八年(1613)九月、牡鹿半島の月ノ浦(宮城県石巻市)を一隻の洋式帆船(はんせん)船出しました。


仙台藩(伊達藩)が建造したサン・ファン・バウティスタ号です


日本人とスペイン人をあわせ一八〇余人を乗せ、船はメキシコ(当時はスペイン領)のアカプルコをめざしました。


日本人初の太平洋横断です。


船は無事横断に成功し、一行はメキシコで船を乗り換え、こんどは大西洋を横断します。


一行はイベリア半島南部に上陸し、マドリッドでスペイン国王のフェリペ三世に謁見。そこからさらに、陸路ローマへとむかいます。


そうして使節の代表・支倉(はせくら)(つね)(なが)(仙台藩士)は、ローマ法王パウロ五世に謁見するのです。


これは異例のことでした。


使節を派遣した仙台藩主・伊達政宗キリスト教徒ではなかったためです


つまり、ローマ法王は、異教徒の使節謁見したことになります(ただし、常長はマドリッドで洗礼を受けています


しかし、そのころ日本では、徳川家康がキリスト教の布教を禁じ、キリシタンへの迫害をはじめていました。


その情報は日本にいる宣教師によってスペインにまで届けられています。


したがって、ローマからふたたびスペインへ戻った一行は、一転して冷たい扱いを受けます。


彼らは追い払われるようにスペインからメキシコへ向かい、そこでふたたびバウティスタ号(前出)に乗って、元和六年(1620)八月、日本へ帰国します。


この遣欧使節団の背景には、スペイン国王の力を借りて討幕を実現する政宗の野望があったといわれています。


本当でしょうか。

(つづく)


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