当時、比叡山延暦寺の僧兵らによる強訴問題が起きていました。
しかも、座主の明雲が強訴の責任を問われて配流される途中、延暦寺の僧兵らがその身柄を奪還する事態へと発展していたのです。
法皇は激怒して比叡山の攻撃を平氏に命じます。
そもそも、強訴の発端は、院の近臣・西光法師(前出)の子が加賀国で延暦寺側と起こしたトラブルにありました。
清盛にしてみたら、比叡山を攻めることはライバルの院の近臣に与する形となり、しかも、仏罰を覚悟しなければなりません。
当時の人としてはやはり、仏罰を覚悟で比叡山へ攻め入ることに躊躇があったのだと思います。
それより、陰謀をでっちあげて院の近臣を摘発したら、この窮地をしのげるどころか、ライバルを政界から一掃できるという一石二鳥が期待できます。
したがって、院の近臣らは鹿谷の山荘につどい、打倒平氏の陰謀ではなく、強訴事件の対応を鳩首していただけだという解釈も成り立ちます。
つまり、事件は清盛によって捏造されたという解釈です。
当時も、事件が捏造ではないかという噂が流れていたらしく、『愚管抄』の作者・慈円(前出)は発覚の一部始終を記録しつつも、
「一定の説は知らねども」
つまり、事実かどうかはわからないという感想を述べ、疑問を抱いています。
やはり、事件は捏造されていたのでしょうか。
(つづく)
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