月形は「五卿退去問題」で高杉に決断を迫り、その結果、高杉は、
「余(高杉)は決意して君側の壅蔽を払いて国内(長州藩内)を一致するを専務とすべし。その他は君ら(月形ら)の好意を拒まず」
と月形に語ります。
高杉は、幕府に靡く藩内の「君側の壅蔽」(俗論党と呼ばれる)を打倒する決意を示し、月形の意見をいれて五卿の藩外移転を認めるというのです。
結局、福岡藩が五卿を受け入れることに決し、実美らは福岡藩内の太宰府に身柄を移されます。
さらに月形は薩長の和解を急務と考え、その実現に奔走するのです。
高杉が福岡藩内に滞在していた際、『高杉晋作伝』によりますと、
「(高杉が)平尾村の山荘に潜伏す時に薩摩の士西郷吉之助たまたま筑前に来る」
いまの福岡市内(平尾山荘)で高杉と西郷という薩長の両雄が会い、その夜、月形らをまじえ、酒を酌み交わしたというのです。
西郷は当時、幕府の征長軍参謀の地位にあり、広島の本営まで来ていました。
また彼には文久二年(1862)から二年間、徳之島と沖永良部島へ島流しにされた経験があり、このとき高杉はその際の話題を持ち出し、
「孤島に在りしに、いま健歩かくのごときは、実に驚くべし」
と西郷にいいました。
島流しで足腰が萎えているはずなのに、西郷の健脚ぶりには驚かされるといったのだ。
すると西郷は、
「島より帰りし時は立ち難く、ただ心のみ馳せしも、この両足は大切の商売道具なれば、厚く自養生せり」
と返しました。
さすがに罪が解かれたときには立つこともままならなかったが、島流しの間、足腰は大事な商売道具だから、養生に努めたというのです。
幕末のヒーローどうしのこの会談は史実なのでしょうか。
(つづく)
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