洗蔵は家録一〇〇石取りの馬廻りでした。
しかし、文久元年(1861)、「佐幕(幕府を佐けるという意味)」を理想とする藩主黒田長溥に急進的な尊王思想を説いたことなどから、家禄没収のうえ、捕縛されてしまいます。
同3年、大赦によってようやく罪を許され、元治元年(1864)五月には自宅での蟄居処分も解かれて、政治の世界へ舞い戻ってきました。
その後、藩内で月形の手腕を必要とされる事態が勃発するのです。
禁門の変(蛤御門の変)で「朝敵」となった長州藩に対して、幕府は十五万に及ぶ征長軍を広島に派遣しました(第一次長州征伐)。
したがって、長州藩と関門海峡を経て近接する福岡藩も、動乱の矢面に立たされることになったのです。
幕府は征長軍撤兵の条件として、長州へ都落ちしていた三条実美ら攘夷派公卿「七卿」(当時、脱走と病死によって五卿になっていました)を藩領外へ退去させようとしていました。
しかし、それは長州の攘夷派藩士たちには到底、受け入れがたい話だったのです。
なぜなら、実美らは、長州が討幕軍を催す際に旗頭に奉戴する存在だったからです。
この問題で長州藩を脱け出し、九州諸藩の間を説いてまわっていたのが高杉晋作でした。
この問題で月形も奔走し、高杉との交流を深めます。そして彼は、高杉にある重大な決意をさせるのです。
(つづく)
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