関ケ原で天下分け目の一戦がおこなわれた九月十五日。
すでに甲冑を着用できないまでに病状が悪化していた吉継は、垂水城主の為広に全軍の指揮を委ね、同時に、松尾山に陣する小早川秀秋(西軍)の去就を怪しんで、抑えの役を買って出ました。
そこへ、小早川隊が松尾山から逆落としに、大谷・平塚隊をめがけ、裏切りの攻撃を仕掛けてきたのです。
予期していた大谷・平塚隊は動じず、小早川隊の横合いに回りこんで激しく攻め立てます。
この猛攻によって、逆に三〇〇人以上の小早川勢を討ち取り、一時松尾山へ押し返しました。
しかし、反撃もここまででした。
小早川隊の裏切りを見て、赤座直保や朽木元綱らが”第二の裏切り“に走ります。裏切りの連鎖が起きたのです。
さすがの大谷・平塚隊も持ちこたえ切れず、壊滅します。
そのとき、吉継は光の失った白眼で彼方を見やり、
「秀秋の無事は、三年は過ごすまじき」
といい、自害して果てたといいます(『関ヶ原御合戦当日記』)。
友情のために壮絶な最期を遂げた吉継ですが、そんな彼にはひとつだけ、不名誉な嫌疑がかけられています。
(つづく)
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