『黄素妙論』の内容(前号を参照してください)からは、まずは浅目に挿入し、いったん陰茎を抜いて女性の反応を窺うことが理想のセックスであったたことがわかります。
つまり、相手(女性)の興奮度に応じて、力の加減を調整していたのです。
この『黄素妙論』は、戦国時代の著名な医師・曲直瀬道三が、中国・明の嘉靖十五年(1536)に刊行された性指南書を和訳したものです。
原典が中国書だけに、古代からの「陰陽五行説」にもとづいています。
つまり、陰陽の交わりである男女間のセックスには、その和合のタイミングが必要だという考え方です。
男が独り善がりにセックスすると、精液をみだりに浪費し、それが健康の障害となって長生きできないと説いています。
久秀は、この教えを忠実に実践したと考えられます。
なにしろ彼は、
「松虫を飼けるにさまざまに養ければ三年まで生きけり。いはんや人間、日用の養により長命ならん事、疑うべからず」(『備前老人物語』)
と豪語している男です。
彼が信長に叛き、天正五年(1577)、居城の大和信貴山城で自害して果てたときには享年六十七歳。
決して長寿とはいえない年ですが、健康には人一倍気を使っていたようです。
京都大学所蔵の『黄素妙論』には、道三がこの書を久秀へ贈呈したことを示す奥付がついています。
したがって長寿を意識していた久秀が同書を参考にしていたことはまず間違いないでしょう。
ただし、彼が性指南書を実践したのは健康と長寿のためであって、決して彼が好色であったことを意味するものではありません。
こうして現代にいたるまで誤解され続ける武将、それが松永久秀であるといえるのではないでしょうか。
(つづく)
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