大老・井伊直弼が大弾圧を断行した理由は何だったのでしょうか。
通説は、アメリカとの修好通商条約締結と徳川家茂(紀州藩主)の将軍継嗣に反対する勢力を一掃するための弾圧であったとしています。
まずは、その真相を探るため、当時の政治情勢を眺めてみましょう。
黒船来航から五年たった安政五年(1858)、アメリカ総領事ハリスらの圧力によって、幕府は通商条約の締結を急いでいました。
のちに幕府は天皇へ「大政」を奉還することになりますが、このときまだ幕府は天皇から「大政」という権限を与えられた状況にあり、極論するなら、単独で条約を結ぶことも可能でした。
しかし、幕府は水戸藩を中心とする攘夷論を抑えるために天皇の許し(勅許)を得ようとします。
水戸藩はまた、尊王論の巣窟でもあります。
天皇が認めた条約締結には、尊王論を掲げる水戸藩も反対できないだろうという理屈でした。
ところが、これがヤブ蛇となってしまいます。
老中主座の堀田正睦(佐倉藩主)が勅許を得ようと上洛して御所に参内すると、条約案の撤回を求めて、岩倉具視ら公家八十八名が抗議のために座り込みをおこなったのです(「廷臣八十八卿列参事件」といいます)。
しかも、彼らの“ボス”である孝明天皇は大の“夷人嫌い”ときています。
これで水戸藩らの攘夷派が勢いづかないはずはありません。
そこに病弱な十三代将軍徳川家定の継嗣問題が重なりました。
幕府首脳が家茂(のちの十四代将軍)を推す一方、水戸藩前藩主の徳川斉昭をはじめ、御三家の尾張藩主・徳川慶恕、越前藩主・松平慶永(春嶽と号す)、薩摩藩主・島津斉彬の条約反対派は、水戸藩から一橋家へ養子に入った慶喜(のちの十五代将軍)の擁立を図りました。
(つづく)