光秀は、縁戚関係にある細川藤孝・忠興父子の協力を期待していました。
しかし、光秀自身、瀬田橋を押さえられずに時間をロスしたことにより、藤孝の信頼を失ったのではないかと考えています。
藤孝は、光秀に対して”絶縁状”ともいうべき書状を送り、その中で信長への弔意を示して髪の元結をきっぱり落としたと明言しているのです。
元結を落とすという行為により、光秀との関係を断つと意志表示したといえます。
その書状は現存していませんが、六月九日付で光秀がしたためた返書(「細川文書」)によって、その事実が明らかになっています。
「御父子(藤孝と嫡男忠興)もとゆゐ(元結)御払候由……」
という一文で始まる有名な書状です。
そのあと光秀は、
「一旦、我等も腹立候へ共、思案候程、かようにニあるへきと存候」(=いったんは我等も腹を立てたが、そのように元結を落とすことはもっともだと考え直した)
と続けています。
さらに光秀は、
「我等不慮之儀存立候事、忠興なと取立可申とての儀ニ候、更無別条候」(=謀叛に及んだのは娘婿の忠興を取り立てるためであり、他に我らが望むことはない)
とまでへりくだり、何とかして藤孝の協力を得ようとしているのです。このあたりの対応は健気なほどだといえます。
(つづく)
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