皆さん、明朝(5・21)の”天文ショー(金環日蝕)”を楽しみにしておられることと思います。
じつは、平清盛の時代にも金環日蝕が起きていたことが科学的に証明されているそうです。
清盛の時代といっても、正確には清盛死去二年後の話ですが、源平合戦の最中にそれは起りました。
当時、平氏は源義仲(頼朝の従兄弟)に都を追われ、本拠を讃岐の屋島に移していました。
そこで義仲軍は、矢田判官代義清らを大将に、その屋島を攻めるべく、瀬戸内海をはさんだ山陽道側の水島(倉敷市)に陣取ります。
寿永二年(1183)閏十月一日、水島付近で合戦がおこなわれました(水島の合戦)。
そのとき、金環日蝕が起き、源氏の敗因になったといわれます。
『源平盛衰記』には、空がにわかにかき曇り、やがて日の光が見えず闇夜のようになり、源氏の兵が驚いて逃げていったとあります。
一方、平重衡(清盛五男)らを大将とする平氏の軍勢は日蝕が起きることを知っていたので、鬨の声を作って慌てる源氏の兵を攻め立てたといいます。
こうみると、やはり日蝕が明暗をわけたように思われますが、実際には、すでに日蝕が起きたとき、合戦の大勢は決していました。
源氏勢の敗因は、屋島を正面から攻めたことにあります。
船合戦(ふないくさ)に慣れていない源氏勢に対して、平氏の兵たちは、それが得意です。
のちに源義経は、この屋島を背後から攻めています。
同四年(1185)二月、義経は摂津の渡辺津(大阪市)から船でまず阿波の勝浦へ渡り、背後から屋島を攻めました。
義経が軍事的天才といわれる所以のひとつです。
残念ながら、金環日蝕が源平合戦の勝敗を決したわけではありませんが、それが源氏の敗走を後押ししたのは事実だと思います。