『平家物語』の中の清盛とその虚実(其の二十二 鹿谷の章②) | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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『平家物語』に、藤原成親が平家転覆を図ろうとした理由が書かれています(以下、口語訳)。


《このころの叙位・除目は、後白河法皇や高倉天皇のお考えによるものではなく、摂政・関白の御成敗(裁定)によるものでもなく、ひとえに平家のままにおこなわれていた。


空席となった左大将は、順番からいって次には徳大寺大納言実定が任じられる番だったが、花山院中納言兼雅もその職を望み、法皇のお気に入りであった新大納言成親卿もその官位を所望していた。


ところが後任の左大将には、清盛の嫡男重盛が右大将から左大将へ転じ、次男宗盛もまだ中納言だったが、数輩の上﨟を超越して右大将に任じられた。


このため、新大納言成親は、


「徳大寺や花山院に先を越されるのはまだしも、宗盛などという平家の次男坊(早世した頼盛を含めると三男)に先を超えられて口惜しいかぎり」


と不満を抱き、それならいっそ平家をほろぼし、本望を遂げようと考えた》


重盛の左大将、宗盛の右大将叙任は安元三年(1177)の正月の除目によります。


そして、同じ年の六月、東山の鹿谷にあった俊寛の山荘で後白河法皇や成親をはじめとする院の近臣が集まって謀議をこらしていたことが発覚し、近臣らは捕えられます。


その謀議の原因となった左大将ですが、左近衛大将のことをいい、天皇を守る近衛兵のトップ。武官の最高位にあたります。


三位以上の内大臣か大納言が叙任されるのが慣例になっています。


つまり、左大将は大臣に通じるポストということになります。


平治の乱の主謀者・信頼卿もこの職を欲して乱を起こしたとされ、公卿にとっても、魅力あるポストなのです。


しかし、鳥羽法皇の側近であった成親の父(家成)でさえ中納言どまり。すでに大納言にまで昇進していた成親は、父の官位を越えていたにもかかわらず、欲をかきすぎた結果だといえます。


それでは成親は具体的にどうやって平家転覆を図ろうとしていたのでしょうか。
(つづく)