元親は、秀吉の肝を寒からしめたものの、その代償は払わなければなりませんでした。
秀吉は家康を臣従させるや、天正13年(1585)6月、四国攻略の軍を催したのです。
上方勢は大軍をもって、阿波・讃岐・伊予の各方面から四国に上陸。元親は“四国の臍”といわれる阿波・白地城(三好市)に本営をもうけます。
しかし、元親は緒戦の敗戦により、意外な理由で降伏を余儀なくされてしまいます。一宮城(徳島市)を守備していた家臣の谷忠澄が本営へ駈けつけ、こう告げたのです。
「上方(軍は)武具・馬具綺麗にして光り輝き、金銀ちりばめ、馬は大長にして眉あがるがごとし」(『南海通記』)
戦国時代の馬体は現代のサラブレッドよりはるかに劣っていましたが、土佐の馬はさらに小ぶり。そのため、忠澄は馬体や装備があまりにもちがいすぎるため、「十に一つも勝ち目はございません」と主君に降伏を進めたのです。
元親はむろん激怒しますが、最後は重臣らの意見を容れ、涙をのみます。
かくして秀吉の前に膝を屈し、かろうじて土佐一国を安堵された元親ですが、臣従してもなお、その秀吉のド肝を抜くことになります。
浦戸湾(高知市)で漁師がしとめた全長7尋(ひろ=約10㍍)の鯨を、丸ごと秀吉に献上しようと、檜皮(ひわだ)で編んだ巨大な簾(すだれ)で巻き、大坂まで曳航したのです。
大坂の湊から700~800人がかりで大坂城の大広間前にすえると、太閤(秀吉)も
「丸ながら(の鯨の)進上、前代未聞」(『元親記』)と舌を巻いたといいます。
“四国の覇者”のスケールの大きさが窺われる逸話です。しかし、元親の事蹟には大きな”嘘”がありました。
(つづく)