長宗我部元親は四国平定を果たしていたか?① | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

来年の大河ドラマの主役は平清盛、再来年が同社社大学の創立者新島襄夫人です。しかし、戦国時代ファンの1人として、ぜひ大河の主役に抜擢してもらいたい武将がいます。


長宗我部元親です。ご存じ、土佐の国人領主から1代にして四国を平定し、天下人の豊臣秀吉をも慌てさせた武将です。しかし、いま彼の四国平定について異論が出ています。元親が四国を平定する前に秀吉の軍門に降っていたという説です。


本当でしょうか。そのことを検討するために、まず元親の生涯を簡単に振り返ってみましょう。


『長元記』によると、土佐・岡豊(おこう)城(南国市)で生まれた元親は初陣からわずか13年で土佐を平定。38歳のときに「阿波・讃岐・伊予の三ヶ国へ弓矢御取出」、つまり四国統一に乗り出すことになっています。


それから7年。ついに念願を果たし、「元親、四国の主になりたまふ」(『同』)というのが通説です。


その破竹の勢いともいえる力の源泉は、元親が暴れん坊の野武士や農民を兵として招集。命知らずの彼らが“一領(一揃え)”の“具足(武具)”を携えて四国の大地を駈けめぐったためです。ご存じの一領具足(いちりょうぐそく)です。


また、元親の謀略に頼むところも大きかったといわれます。


元親が“土佐の国主”と仰がれる一条氏を滅ぼしたときのこと。なにしろ一条氏は関白家に起源があり、応仁の乱の混乱を嫌い、京から所領のある幡多(はた)郡に逃れてきた名門。元親にとっては主筋にあたります。


しかし、当主の一条兼定はとてつもない暴君。そこで元親は兼定の老臣らをたらしこみ、主君の兼定を追放させます。むろん老臣らは、元親が兼定の若君(一条内政(ただまさ))を引き立ててくれるものと思っての行動でした。


しかし、その老臣らは暴君を追い出したものの、内政は「御知行(所領)進ぜられず、元親よりの賄い」(『元親記』)で生計を立てる有様となります。


ここに、ようやく彼らは元親にうまく乗せられたことを悟ります。そして、主君を追いだした老臣の1人は責任を取らされる形で切腹して果てたといいます。元親はとてつもない謀略家だったのです。