如水が中央の混乱に乗じて天下を奪い取ろうとした話は、『常山紀談』などの非公式な史料が主な出典です。
黒田家の正史ともいえる『黒田家譜』には、九州の兵を率いて京へ攻め上ると書かれてはいるものの、それは「家康公へ忠節を尽さん」がためと明言されています。
あくまで”徳川のため”であって、”おのれの野望のため”ではありません。
もちろん、徳川の世になってから、さすがに藩祖(如水)が徳川の天下を横取りしようとしていたとは書けないから、事実を隠ぺいしたともいえます。
しかしながら、徳川家康から如水へ宛てた書状に「たびたび注進の旨、その意を得候」とあるのはどう理解したらいいでしょうか。
この書状から、如水は九州平定戦の渦中、再三家康へ戦況報告していたことがわかります。
実は、大友義統が石垣原で如水に敗れ、降伏したのが9月15日。まさに関ヶ原で天下分け目の決着がついた日でした。
如水がこの事実を知るのはまだ、豊後の諸城を攻めていたとき。ここで天下大乱は収束し、如水の野望も潰えているはずです。
ところが、如水はその後もなお、軍を進めています。それはなぜだったのでしょうか。
(つづく)