黒田如水「天下取りの野望」の謎③ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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如水が石垣原(いしがきばる)で大友軍を破ったことにより、一気に九州の情勢は黒田軍に傾きます。石垣原の合戦が”九州の関ヶ原”と呼ばれる所以です。

そこで一転、北進を始めた如水は、豊後の諸城を攻め落とし、本国の豊前・中津を素通りして、同じく豊前・小倉城(城主は毛利勝信)を開城させました。


このとき、黒田勢は1万3000に膨れ上がっています。これは、如水が降伏した兵を召し抱え、靡下に組み入れたためでした。

小倉を落とした如水は、筑前・筑後の諸城を落城させ、そして清正らと共に肥後の水俣へと南進します。


九州制覇の野望はもうすぐそこまで来ていました。島津さえ倒せば、その野望が達成されるからです。

ところが、薩摩国境を目指す如水は、水俣で東軍の総大将・徳川家康から

「(関ヶ原に勝利し)今は残りなく天下一統になりゆくなれば、急ぎ帰陣あるべき」(『黒田如水記』)

という停戦命令を受けます。薩摩の島津義久が徳川に恭順の意を示したからでした。

この少し先の話です。


如水の嫡男長政は、関ヶ原で小早川秀秋を東軍に寝返らせる勲功をあげますが、その長政が帰国したときの有名な逸話があります。

家康が長政の勲功に感激し、その右手を握りしめて感謝したという話を、自慢げに如水に話しましました。


すると如水は、「そのとき、左の手は何をしておった」といいます。つまり、なぜ左手で家康を刺し殺さなかったといいたかったのでしょう。

如水が期待した天下大乱が予想以上に早く収束したため、天下取りを逃したという悔しさが滲み出る逸話ですが、そもそも、如水は天下取りの野望を抱いていたのでしょうか。
(つづく)