蝮の道三「2人説」の謎② | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

『岐阜県史』の編纂過程で発見された史料が斎藤道三”2人説”を裏付ける決定的な証拠となり、いまや、”蝮の道三”こと、斎藤道三の国盗り物語は、父子2代にわたる事蹟であったことが歴史の定説になりつつあります。


つまり、京の元法華坊主が美濃に来て、長井新左衛門として権勢を奮うまでになり、やがて病死するものの、その子が斎藤氏(守護代)に成り上がるというストーリーです。


この流れでいうと、その後、美濃の守護職土岐頼芸(よりよし)を追放して美濃の国主となり、愛娘の帰蝶(濃姫)を織田信長へ嫁がせるのは、子の道三(2代目)ということになります。


岐阜市の常在寺にある斎藤道三の肖像画は、帰蝶が寄進したものであり、そのため、われわれが道三として認識している肖像は2代目のものであることがわかります。


以上の話を踏まえ、この2代目の母について考えました。


皆さんご存じのように、道三といえば油売りの商人から、美濃の国主になった下剋上の英雄として知られています。


その油売りのときの有名な逸話が、いわゆる一文銭の計り売りです。柄杓ですくった油を、当時、山崎屋と名乗っていた道三が一文銭の穴から通し、「もし穴より外へ、少しにても懸りしならば、油を無償にて進ずべし」といって売り歩き、評判が評判を呼んだという話です。


この話は江戸時代の史書(『美濃旧国記』)に書かれていることであり、道三(”2人説”にもとづくと初代ということになる)が法華坊主(妙覚寺の僧)をやめたあと、油問屋奈良屋の娘を娶って山崎屋へと名をあらためた行商時代の逸話として記されています。


しかし、一級史料には記されておらず、これが史実かどうかはむろん確認できません。


ただ、個人的には、道三の父(初代)が油売りだった可能性は十分にあると考えています。


奈良屋の娘はその後、いつの間にか前述の史書などから姿を消してしまいます。彼女の年齢を考えると、その奈良屋の娘が2代目(つまり道三自身)の母ではなかったかと考えています。


是非とも、皆さんのご意見をお伺いしたいものです。


この回、父子2代の国盗りがなぜ息子1人の国盗りへスリ替わったのか――その謎解きにチャレンジする予定でしたが、つい脱線してしまいました。次回は必ず、謎解きに挑戦したいと思っています。(つづく)