蝮の道三「2人説」の謎① | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

斎藤道三の謎に迫りたいと思います。道三といえば、油売りの商人から美濃の国主となった下剋上の英雄として知られています。


まず通説にしたがい、”蝮の道三”の生涯を振り返ってみましょう。


道三は貧しい笠張りの家の子、あるいは松波基宗という御所の警護兵の子だったとされます。おそらく、御所の警護だけで飯を食うのは難しいから、父親の基宗は笠張りの内職をして生計を立てていたのでしょう。道三は11歳のとき京の名刹・妙覚寺に入り、法蓮坊と名乗るものの、長じてから還俗します。


やがて油売りの商人山崎屋庄五郎(庄九郎ともいう)となり、妙覚寺時代の弟弟子が稲葉山(岐阜市)山麓の常在寺住職を務める縁を頼り、美濃の守護土岐家の執政・長井長弘(稲葉山城主)に仕えることになります。


長弘は彼の能力を高く買い、家系が途絶えていた家臣の西村家の跡を継がせ、油売りの商人・山崎屋は、西村勘九郎正利へと出世を遂げるのです。


長弘はさらに、美濃守護職土岐政頼に勘九郎を紹介しますが、政頼はその人相骨柄を見て「これを愛するは渠(悪党の頭目)の謀計に落入るに等し」(『美濃国諸旧記』)として遠ざけます。そこで勘九郎は政頼の弟・頼芸(よりよし)に近づき、その信をえて、自分を遠ざけた当主政頼の居城川手(岐阜市)へ夜襲をかけて、越前へ放逐。頼芸は思ってもみなかった守護職を手にし、ますます勘九郎を重用するようになります。


こうして美濃の国主・頼芸を籠絡した勘九郎にとって、邪魔者は執政の長弘だけ。たとえ大恩ある相手であろうが、この男には関係ありません。勘九郎は長弘に酒宴をすすめ、乱酒遊興の罠に嵌めておき、その所業を頼芸に讒言。「(長弘を)夫婦共に殺害して、ついにに目代(執政)長井の家を横領」(『同』)するのです。


そのあと守護代斎藤家の当主が没すると、強引にその跡目を継ぎ、ここに斎藤利政(のち秀龍、出家して道三)が誕生します。


そして、国盗りの総仕上げとして主君頼芸の居城大桑(おおが)(山県市)を攻め、尾張へ放逐するのです。


以上が、通説でいう”1人道三”のストーリーです。しかし、最近では”蝮の道三”と恐れられた彼の事蹟は、父親との合作だという話が定説になりつつあります。


それは『岐阜県史』の編纂過程で発見された古文書がきっかけになりました。その古文書は、道三の死の4年後、南近江の大名・六角承禎が斎藤義龍(道三の子)と自分の娘との婚儀に反対する理由として、六角家と斎藤家の家格のちがいを強調する内容となっており、その中で道三父子の経歴を述べています。信用に足る史料だと思います。関連する部分を次に引用します。


斎治(義龍のこと)身上の儀、祖父新左衛門(道三の父のこと)は京都妙覚寺法花(法華)坊主落にて、西村と申し、長井弥二郎(長弘のこと)へ罷出、濃州の錯乱のみぎり(中略)長井同名になり、また父左近大夫(道三のこと)代々なる惣領を射殺、諸職を奪取。彼の者、斎藤同名に成あがり


つまり、道三の前半生として語られる経歴は、その父(=笠張り職人兼御所の警備兵)の話だったのです。その元法華坊主が美濃に来て、長井新左衛門として権勢を奮うまでになるものの、病死。その子(左近大夫)が長弘らを殺して長井家を簒奪し、やがて斎藤氏(守護代)に成り上がるというストーリーです。道三の国盗りは、父子2代の“合作”だったことになります。


それではなぜ、父子2代の国盗りが、息子1人の国盗りへスリ替わったのでしょうか。(つづく)