思索のためのノート

思索のためのノート

まずは、「哲学ノート」。この間に「発行」したHPやブログの記事、およびIT紙面上には未公開の活字化された論考やエッセイを、編集しなおし、公開。

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 本江邦夫の著書『中・高校生のための現代美術入門』(平凡社)によれば、「抽象画」においては、「地」と「図」の関係があいまいになり、(「もの」ではなく)「色」と「形」が主役になる。

 抽象画は、「遠近法」を無視し、三次元の世界を二次元化する。分類された「名前の体系」として秩序づけられてきた「この世界」を、カオス=混沌(無秩序・無名辞)の世界に還元し、「次なる世界」の「創造」につなげていく。この営みはいかにも「神話的」である。実際、カンディンスキーは「描く」ことの意味について、次のように述べている。本江の著からの引用である。

 描くとは、さまざまな世界が雷鳴を響かせながらぶつかりあうようなものであり、・・・・、あらゆる作品は、宇宙が生まれたのと同じやり方で生まれてきます。つまりカタストロフィ(終局)を通じて。これこそが、さまざまな楽器の混沌のごとき咆哮を、最終的に展開の音楽ともいうべきひとつのシンフォニーにつくりあげるのです。作品創造、それはまさに世界創造なのです。(『回想』、1913)

 画家が「もの」にたよらず、「ただ色と形だけで自分の世界をあらわさねばならないとしたら、そこで決定的な役割をはたすのは何なの」(本江)か。本江によれば、カンディンスキーはそれを「内的必然性」、つまり「色と形にたいする画家の心からの欲求」とする。「絵の主題などどうでもいい」のである。「となると、絵は色と形による、音楽のようなもの」になる。「事実、このころのカンディンスキーの作品は、色彩のシンフォニーのよう」で、「題名も<コンポジション>(構成とか楽曲の意味)、<即興>といった音楽につうじるものが多い」。

 「作品創造」は「世界創造」だというカンディンスキーの言説からわたしが思いつくのは、宗教学者M・エリアーデの著書、たとえば『永遠回帰の神話』や『聖と俗』、『生と再生』である。彼はこれらの書において、世界各地で行われる<祭儀>の原初的・根元的意義は「創世神話の再現」にある、ということを手を変え、品を変えて力説する。神による「天地創造」においてこそ、考えられる限りでの最大のエネルギーが発揮されたから、というのがその理由である。だからこそ人々は、祭儀において「疲弊した」現世の「秩序」を「神話というシナリオ」によっていったん解体(死=カオス化)し、その後に再生(蘇生)させる(再活性化=新秩序の創造)、というのである。

 だとすれば、「作品創造」はその都度の「神話の再現」ということになり、その意味で<祭儀>的営為である。先日NHKで昨年9月に開かれた「サイトウ・キネン・フェスティバル 松本」における内田光子の鬼気迫るピアノ演奏、小澤征爾の絶妙なタクトの振りによるベートーベン「ピアノ協奏曲第5番・皇帝」を見ていて、言いがたい感動を覚えた。その理由をいまから思えば、彼女と彼は、B翁の創出した音楽という名の神話世界を音曲という名のシナリオをもとに、全霊を込めて再現=創造していたからだと、解する他ない。二人の、手と身体の動きは<祭り>空間を演出し、自ずから演ずる者のそれにもたとえられよう。そして、そうであるがゆえに<劇>的だったのだ。

 「演出」「演技」「演奏」などの言辞をくくるのは、「演ずる」という言葉。その言葉を現出する舞台=世界の要にいるのは<神>なのだ、とエリアーデなら言いそうである。カンディンスキーならこう言うだろう。自分にとって「描く」とは「神を演じる」ことなのだ、と。                                   (2007.06.07)
期日と祈願

  与那原大綱曳は、元来旧暦626日に挙行されていたが、近年は直後の日曜日に行われる。与那原町では現在、他に上与那原、大見武、板良敷の3区が従来通り26日に綱引きを実施している。沖縄全県下で行われる綱引きの実施時期を比較してみると、6月に実施される例が7割強を占め、それらは15日前後の「カシチー綱」と25日前後の「カシチー綱」に二分される。前者は旧暦615日のウマチー(稲の収穫祭)の、後者は稲作を始めるに当たって必要な雨水が得られることを祈願する「年浴」の一環として挙行された。(19)

  起源説話が雨乞い祈願の趣旨を伝えていることはすでに述べたが、かつて所属していた大里村の集落がいずれも26日に綱引きを行っていることからしても、与那原町の4綱引きがカシチー綱に属することはたしかである。「年浴」のことを、地元では「アミシの御願(ウグヮン)」と呼んでいる。「大綱曳実行委員会」は、本来の期日に行わず、日延べを行うことの報告と許可を願う「日延べの御願」を26日当日に実施している。

  「日延べの御願」と綱引き当日の祈願は、「大綱曳実行委員会」の主要メンバーである6区の区長(自治会長)によって執り行われる。実行委員会の上位組織となっている「与那原まつり運営委員会」(後出)の委員長である町長は、当然のことながらこの祈願には参加しない。また、近年まで「与那原大綱曳」を旧与那原集落(6区)の行事と解してきた他区の区長が、「実行委員」として祈願に加わるようになったのは、平成5年からである。当日は、集落の安穏や豊作、綱引き行事の無事終了を祈願するという。祈願は大綱曳実行委員長が祭主となり、酒、米、菓子に線香(火をつけず)を供える。祈願の場所と順路は以下の通りである。「大綱曳」当日は、「親川」に開始の報告をする。このときの供物は「日延べの御願」と同様である。

 写真6(親川と綱曳資料館) 写真7(阿知利世主)

  東名大主(アガリナ・ウフス、トウナ・ウフスとも):上与那原集落にあり、同集落の発祥に関わる人物「東名大主」を祀る。上与那原の名幸家の祖とされる。 
  ソウヌマシ:上与那原の開祖を祀る。東名大主の7代目の3男という。6区よりなる与那原集落はかつて海であったが、彼が干拓し、集落の基礎を造ったと伝えられる。海の真ん中に竿を立てて、そこまで陸にしてくれと願ったら、干上がって陸地になったとする伝承もある。このように、与那原は上与那原の祖先が開拓したことから、与那原の綱は上与那原の綱引き終了後に引かれるべきだと言われている。
  阿知利世主(アチリヨノヌシ):与那原の開拓功労者と伝えられる人を祀る。
  御殿山(ウドゥンヤマ):天女が天降りしたと伝えられる場所である。王国時代は、先に述べた「聞得大君」の就任儀礼に際して、祭場となる「斎場御嶽(セーファ・ウタキ)」の儀礼に先立って、ここで東方礼拝が行われた。  
  親川:集落発生に係る井泉である。天女が生まれた子の産水を浴びせたところと伝えられ、新任の聞得大君もここで清めの水を浴びる意の「お水撫で」を行った。

写真8「御殿山(左手広場が「まつり」会場)

 なお、旧暦6月26日に綱を引く上与那原、大見武、板良敷も、集落の発祥に関わる拝所や旧家の祖神、井戸(泉)を区長や区民が巡拝する。また、綱引きが神事としての意義を持っていることは、中断を忌避する観念にもうかがえる。綱引きは暴風のような悪天候でも必ず実施しなければならないとされていて、昭和20・21年は戦争のためやむなく中断したが、それ以外ではたとえば明治天皇の死去に際しても3月遅らせて実施したという。

つくる

  綱は東西2本、ワラでつくられる。2本とも頭部を輪状にし、西方の輪の部分は、東方のそれより大きめにつくる。東方を雄綱、西方を雌綱と呼ぶ。東方の雄綱頭部を西方雌綱頭部に挿入し、挿入した雄綱の輪内に木製の「カナチ棒」と呼ばれる太い棒を通して両綱を結合し、東西双方で引き合う形になる。綱は頭部のカナチ綱、胴体部分の胴綱、4箇所に付けられた手綱、その間に添えられる小綱(帯綱)よりなる。雄綱のカナチ綱の外経は57寸、雌綱の内経が62寸、胴の長さは前出「規定」では23間で、現在もあまり変わらない。頭部のカナチ綱は、雌雄いずれも独自の趣向を施した編み上げ方になっていて、当事者たちはこれが与那原大綱の特色だと自負している。

 綱は、大人の一握りのワラ束つくりから始まる。その3束1組で綱をつくり、これを1Century">単位として何本もより合わせ、大綱に仕上げていく。単位となる綱は10090・80・70メートルの長さをそれぞれ2本、枝綱8本で東方が阿知利世主前の馬場通り(戦前は農耕馬の競歩が行われた場所である)、西方は親川前の小路でつくられる。現在は「与那原まつり」の一環と位置づけられているため、町の全区で分担して製作し、大綱曳実行委員会に提出している。各区から提出された綱を編み上げて大綱に仕上げる作業は、綱引きの前日、東方は馬場通り、西方がその西に続く中央通りで行われる。両通りは与那原の中心街を東西に貫通する。製作について1952年の「規定」は既述のように「十七才以上六十才迄の男子は綱作り綱曳には全部出勤する事」と定め、また「無届欠勤者は過怠金七十円(軍票=B円-引用者注)特殊業務者は百円宛徴収する事」と記すが、現在では強制ができずに有志を募っている。そしてそれが、「かつぐ」事とともにしばしば人手不足を生じる結果になっている。町役場でも職員に率先して綱作りに参加するよう呼びかけている。

はじめに 現存する経塚・経碑 散逸した経碑 比較と考察 
 

はじめに
 
 首里から浦添に通じるバス道路をしばらく行って首里を抜けると、まもなく経塚という名の集落に至る。バス道路が右にカーブする地点で、左側にまっすぐ細い道が伸びていて、これは旧道である。旧道を50メートルも歩くと、右手の小高い丘に石碑が建っていて、一帯は拝所になっていることがわかる。碑には「金剛嶺」と刻まれている。
 
 この碑は、『浦添市史』第3巻によると、俗に「経塚の碑」と呼ばれ、土地の人々は氏神として尊崇参拝し、旧101日には例祭が執り行われるという。また、この一帯は「ウチョーモー」(お経を埋めた野原)とも呼ばれ、地震の際、この地だけはけっして揺れないと言われ、「チョーチカチカ」を3度唱えると被災しないとも伝えられているとのことである。「チョーチカ」は「きょーつか」がなまったものと見られている。

 沖縄で、経塚に関連する地名を持つのはこの地だけであり、経塚に関する調査・研究も少ない。これまでの報告を二、三紹介すると、まず八重山石垣市富崎にあったとされる妙法蓮華経碑に関する喜舎場永珣氏と宮良賢貞氏の論争があり、当事者の一人宮良氏の論説が氏の『八重山芸能と民俗』に3篇収録されている。氏は、『球陽』に記録される桃林寺住職義翁建立の経塚は、近世日本で盛行した「一字一石経」経塚であり、本島の経塚(事例として浦添の経塚と首里西来院の経碑)もこの部類に属すると述べている。(1)

 一方、宮家準氏は、「遊行宗教者ー山伏の跡を求めて」の中であらまし次のように述べている。

 琉球の遊行宗教者の足跡には、彼らが修験僧と密接な関係を持っていた、あるいは修験者地震であったかもしれないと推測せしめる多くのものがある。まず、大蛇退治の伝説がある。これは、基本的には修験僧が土地の悪霊を封じ込めて鎮める力を持つという信仰に根ざしている。経塚の造塔も同様の信仰に根ざす宗教活動である。経塚造塔の大部分は除魔の目的で経石、金剛般若経などの経を納めたものである。似たような話で、宮古狩俣で空海が刀を土中におさめたとする伝承がある。これらはいずれも、地霊を鎮める目的で地中に経石、経・刀などをおさめて埋める修験道の信仰と類似している。(2)

 多田孝正氏は、「浦添経塚について」において、他の地に建つ経塚・経碑・梵字碑等の伝承、記録を比較しながら、考察を加えておられるが(3)、氏の所説については、後で触れることにしたい。

 本稿では、沖縄県教育委員会文化課が昭和58年度、59年度の2年がかりで調査した金石分遺品調査の調査実務、および報告者編集担当者として、筆者が得た若干の知見を述べてみたい。(4)なお、本稿で述べる経塚については、いずれも正式な発掘調査が行われたことはない。関秀夫氏は「経碑は単なる経典を書写したことを記念するために建立する場合もあり、地下埋納の経石の確認調査が行われないものについては、一石経塚とはいえないものであろう」と述べておられる。(5)本稿も近世琉球の経塚・経碑が一字一石経の系列にあることを述べんとするものではあるが、経石の確認がない現段階では、あくまで仮説的な論考である。

現存する経塚・経碑

 ところで、浦添の経塚は文献にも記載がある。たとえば、『琉球国旧記』(1731)では、「経墓」の見出しで次のように記されている。 

 昔日、此地多妖怪、時時出来、詐変状貌、屡悩行路人、時有日秀上人、写経于小石、蔵之于小石、即建碑石、以圧之、碑石有大書、金剛嶺三字、自此而来、妖怪不復起、而行旅之人、亦楽往還之安御焉。

 昔、この地に「妖怪」が出没し、しばしば往来する人々を悩ませた。時に日秀上人という人がいて、小石に経文を筆写してこの山に埋め、その上に碑石を建てて「金剛嶺」の三字を大書したところ、妖怪は再び現れることなく、人々は安心して往還した、というのである。『琉球国由来記』(1713)はでは「窃ニ思フニ、日秀上人、当国滞在之時、金剛経書写シ玉ヒテ、為被埋歟」として、経名まであげている。
 日秀については、島尻勝太郎(6)、宮家準(7)、多田孝正(8)、氏等の考察があり、ここで詳述はしないが、1503年、上野もしくは加賀の出自で、尚真時代、16世紀の初めに来琉し、多くの仏教的事跡を残して、20余年後に薩摩に渡っている。宮家、多田両氏は日秀を琉球に数多く渡来した高野聖の1人と推測している点で一致している。

 浦添の経碑には「金剛嶺」と記されるのみで、建碑者も建碑年も書かれていない。現存する経碑中、建碑者・建碑年が明記されているものでもっとも古いのは、沖縄本島北部国頭村奥間の「金剛山碑」である。同碑は正面に「金剛山」と刻され、向かって左側面下段に次の碑文が刻まれている。

 康煕四十五年丙戌八月十四日国頭奥間村参り向氏国頭親方朝稘公請我がるまをさせ給也 其志誠以難申述候 我無徳ニ而別ニ無可謝恩為結縁経墓相企候ニ付老若男女相喜浜ニ至り過分ニ石を拾い聚候 依之がるまの余ニ奉書写金剛経也
 願ハ此功徳を以て朝稘公及間切中老若男女等ニ至迄無病息災延命ニ而弥児孫繁栄 東峰拝書

 碑文の内容は、康煕45(1706)年8月14日に、国頭間切奥間村に来たところ、国頭親方朝稘公より「がるま」を請われた。その志の深さは誠に申し述べがたく、自分は無徳で、別に謝恩の意思を表明できるものもないので、人々に仏縁を結ぼうと「経墓」を建てることを企てた。そうしたところ、老若男女皆ともに相喜び、浜に行って多くの小石を拾い集めて来た。そこで、「がるま之余」にこれらの小石に「金剛経」を書写し、奉納した。願わくばこの功徳によって朝稘公始め間切中の老若男女に至るまで、無病息災、延命にして、子孫もいよいよ繁栄せんことを、というものである。

 「がるま」は、仏教儀礼のようだが、意味不明。この碑は社殿の中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた同室石材の碑と並べて建てられていて、奥間集落の拝所になっている。現在は定例の祭りはないが、戦前から終戦直後にかけては、10月15日が例祭で、村・字で祭ったという。個人的にも旅に出たり、出征のときは、集落を離れている間の健康と無事を祈願し、また子供が生まれたときは、奥間の浜から小石を拾ってきて、ここに奉納したという。

 奥間の人で碑文の詳しい内容を知る人はなく、筆者の東峰という人物も知られていない。ただ、碑の建立された10月5日を例祭としていたこと、健康祈願や生まれた子供の無事・長命を祈願したというところに、僧東峰の経塚を築いた意図が貫かれていることをかいま見ることができる。興味深いのは『沖縄県国頭郡志』でここを俗に経塚と言い、日秀上人の建立だと伝えられていると記されていることである。(9)
碑文から経塚築造および経碑の建立年、そして築造の当事者まで明らかであるにもかかわらず、各地を巡行し、多くの事跡を残したとされる日秀上人に付会して語り伝えられていたところに、著名な仏教的遊行者が、伝説世界に進入する有様がうかがえておもしろい。

はじめに 

 1879(明治12)年、明治政府の強圧的な「琉球処分」によって琉球王国は解体し、沖縄県が誕生した。爾来、沖縄県民(人)にとって、自らの人と歴史・文化を日本のそれのなかにどの様に位置付け、さらに近代国家日本のなかで沖縄県(民)の占める位置をどう理解していかなければならないか、その位置をどのような方法で確証するのか、そのことが絶えず主要な課題であり続けてきた。その位置づけのありようは、また、時の権力の中枢にある者にとっても、ニュアンスを変えながら重要な施策のポイントとなってきた。以上の点は、政治、経済、社会の各分野でにおいて指摘できようが、教育の場面においても、問題が先鋭に現出することが多かった。

1.「与那原大綱曳」の「民俗」

歴史的背景
 
 現在の与那原町は、地番のうえでは大見武、与那原(行政区として与原・浜田・新島・中島・森下・港・江口・町営団地・日の出園・、このうち与原・町営団地・日の出園を除く区が6区である)、上与那原、板良敷(行政区として板良敷・県営団地・当添)に分かれるが、行政的な「町」として独立したのは、戦後1949年のことである。それまでは大里村の一角をなしていた。

 与那原町の歴史を特定する要因は、いくつかある。そして、それが「大綱曳」および「与那原まつり」を規定している。

 要因の一つは、農村一般として持つ性格とその変化である。17世紀半ばの記録とされる「琉球国高究帳」では「島添大里間切与那原村」の田高325石余、畑高155石余となっていて、田作中心の農業であったことがわかるが、王府編集になる『琉球国由来記』(1713年)大里間切(「間切」は現行の「町」や「村(そん)」に当たる)の項には、「与那原村(むら)」(「村(むら)」は現行の字に当たる)の他に「上与那原村」「大見武村」「板良敷村」の各集落で稲穂祭・稲大祭が執り行われたことが記されている。

 町内の地質の大半は、肥沃で保水力に富むジャーガル土壌で、近年は稲作に替わってサトウキビ作と花卉園芸が農業の中心である。しかし、サトウキビの千巻生産量は昭和50年代から5,000~6,000トン台で低迷を続け、平成2~3年期は3,563トンまで落ち込んでいる。(7)これが、那覇市のベッドタウン化による宅地化と関わることはいうまでもない。

 もう一つの要因は、琉球王国の首都であった首里に近接するという特性である。王権との関連でいえば、とくに国家最高の女性神職「聞得大君(きこえおおぎみ)」の就任儀礼「御新下(おあらお)りの一環を占める儀礼が同地で挙行された。「御新下り」の主祭場は知念間切(現知念村)の「斎場御嶽(セーファ・ウタキ)」であるが、それに先立つ「水撫で」(みそぎに相当すると考えられる)が、与那原の「親川」で行われたのである。(8)『琉球国由来記』はこの「オヤガワ」のことを、「浜ノ御殿」と呼ばれる場所に天降りした「天女」が、子に産水を浴びせた所と記している。(9)「親川」の「川」は、井戸や泉の方言の漢字表記である。この「親川」は「与那原村」の村落発祥にかかる聖地として今も住民から崇められ、また天女が天降りした「浜ヌ御殿(ウドゥン)」は、現在「青少年広場」と呼ばれて「与那原大綱曳」をメインとする「与那原まつり」の会場となっている。

 与那原町の歴史を特徴づける3点目は、沖縄本島東部にあって海に面し、戦前まで中北部と南部を陸路・海路両面で結ぶ役割を果たした港町・商業街としての特性である。近世から近代にかけて、首里や那覇、および近隣の村々と本島中北部の間で物資が交流する場として栄えた。その足となったのが、「山原船」(マーラン船)であり、馬車である。『与那原町史』によれば、明治34年にこの地から移出されたのは、焼酎(泡盛)・ソーメン・昆布・白米・味噌・醤油などの食料品に甘藷や豚、逆に移入されたのは薪炭・木材・木炭・樽板・製藍などである。現在も海辺に材木店が数軒並んでいるのは、当時の名残である。

 港町・商業街として人口の増加をみた「与那原」だからこそ、大見武や上与那原、板良敷のような近隣の集落に比して大きな綱を毎年引くことができたということができよう。ただし、この都市化が近年では「大綱曳」に関心を示さない「寄留民」を増やし、その存続を危うくしてきた要因であることも、またたしかである。しかし、そのことは後で述べることにして、以上3つの歴史的特質を念頭に置いたうえで、「大綱曳」の現況を概観することから始めよう。

綱曳行事の主体

 現在の与那原大綱曳の実施主体は、「与那原大綱曳実行委員会」である。その原型は従前からあったと想定されるが、明確な組織規定のもとに構成されるのうになったのは、1952年に「綱曳行事規定」(以後「規定」と表記)が制定されて以後のことである。(11)この年は、歴史的に見れば沖縄が日本から法的に分離することが確定した年でもある。この時点では「綱曳実行委員会」と称していた。
その後の大綱曳は、期日や綱作り態勢など一部に異同はあるものの、基本的にはこの規定に基づいて挙行されている。規定の第一項によれば、大綱曳は「毎年六月二十六日に綱曳を行ふ事」とあり、続く項では「現在の浜田区新島区中島区港区江口区森下区の六区の行事たる事を規定す」とある。与那原町を構成する他の「区」すなわち上与那原、与原、大見武、板良敷、当添は主催者に含まれていない。このことにはふたつの意味がある。

 ひとつは、他区を主催者から排除することである。実際、旧士族出身者が首里・那覇から移住して形成した集落(いわゆる「ヤードゥイ」)である、当添と、「寄留民」と呼ばれた外来者や6区の次・三男で形成された与原を除く旧来の3集落は、いずれも独自の綱引きを旧暦6月26日に挙行して、現在に至っている。旧「与那原村」を前身とする6区による綱引きという限定は、6区の区長プラス各2人という役員構成や、綱作りに際して「十七才以上六十才迄の男子は綱作り綱曳には全部出勤する事」という規定にもよく示されている。

 次に、「綱曳は昔より祭事を兼ねた行事であるから、之を如何なる事由あるにせよ町全体綱としての行事の変更は絶対に容認せざる事」と規定が述べるように、町行政当局の介入も認めない方針を貫こうとしている。kれは、1952年当時、すでにそのような意見ないし動きが無視できないものとして存在していたことを示すものである。言い換えれば、「大綱曳」は近世の「与那原村」の「祭事」としての性格を受け継ぎながら、集落(地域)の変貌の過程で性格の変更を絶えず迫られてきたとうことになるのである。 

農耕儀礼としてー起源伝承から

 前記「規定」には、次のような「綱曳の由来」が記されている。

 昔、或る所に至って忠実な村頭があった。或る年、稲が頗る不作である上に害虫が発生して、農民は此の上もない苦境に逢着した。そこで彼は、人民を集めて協議をこらし、善後策を講じたが、人民は皆害虫を焼き殺そうと主張するばかりで、他によい工夫がない。村頭は折角作った作物を焼き払ふのは惜しいと思ひ、協議を中止して家に帰った。 色々と思案にくれたがよい考が浮かばない。彼は終に野原に捨ててあった父のところへ行き、事の次第をのべて教を乞ふた処、父は農作物を焼くのは惜しい事だ。人民総出になって太鼓を鳴らし、燧火を振りかざしつつ、大きな綱を作ってそれを曳け、綱曳く時は思ふ存分大声を出して騒げ、そうすれば害虫は自ら死滅してしまふ、と教えて呉れたので、村頭は早速人民を集めて右の次第を話し、大綱を作って青年男女の手によって田の畦で曳かれた。その結果害虫は水中に落ちて死んでしまった。そして害虫を駆除するとともに尚いくらかの収穫さえ得ることが出来た。此の事当時の国王の聴問(「聞」か)に達するや国王は彼らの挙を大いに賞賛し後は国全体に之を奨励したとの事である。それ以来毎年綱曳きは行われ、又六十才以上の老人を野原に捨てる事も禁止されたとの事である。

 この文章は、内容は言うに及ばず表現まで『島尻郡誌』所収の「綱引の由来」とほとんど同じである。(12)同誌は「大里村の郷土資料」を参照したとあるから、かつて大里村に属していた与那原にも同様の伝承があったことが考えられる。

 一方、与那原町教育委員会が平成3年に発行した『与那原の民話』は、綱引きに関する別の伝承を収録している。ひとつはこうである。田畑の害虫を追い払うため、お年寄りの進言で野山や周辺の草を集めて妬いて、みんなで鐘(鉦鼓の類)やドラを叩いたら逃げた。それで豊作になったら今度は集落の西と東で出来具合を争ったので、綱引きで勝敗を決するようにとの助言を得た。(13)もう一つは上記伝承とほとんど同じであるが、国王聴聞の話は出ず、始まりは400年前とする。最後に、豊漁を祈願する意味も込めて浜で引くのだという説明が付加されている。(14)

 また与那原の(大)綱引きは、上与那原の綱引きが終了して後に引く慣わしであったが、ある年、上与那原が引かないうちに与那原で綱引きを行ったら、いろいろなたたりがあったので、もとの通りに上与那原村が先に引くことになったという伝説もある。(15)この伝承は、後術するように、海辺に位置する「与那原村」が、山手にある「上与那原村」からの「分村」であることを示唆しているが、一方、旧暦6月25日以前に「引く」ことを戒めたものとも受け取れる。「大綱曳」の維持・展開を図るために、この日が平日だとその「直後」の日曜日に開催日をずらす、とする発想の裏には上記の事情もあったのかも知れない。

 400年前に始まったとするのは同じだが、理由については別の話も伝わっている。昔のこと、今「アマグイモー(雨乞い杜)」と呼ばれているところで雨乞いの儀礼をしたら雨が降った。ところがしばらくしてまた雨が降らなくなった。ある人が綱を引いたら雨が降ると言ったのでで綱を引いたら雨が降り続けたので、以来綱を引くようになった、というのである。別系統と見られる話も伝わっている。戦争の時代があって、同じ人間同士が殺しあっていた。神様が海に現れて殺し合いではなく、綱引きによって勝敗を決するように、と伝えた。神様が現れた日が6月26日だったので、今でも村びとは一致してこの日に綱を引く。それで綱引きの前は必ず海が荒れるという説明が付け加わっている。(16) これらの伝承から、綱引きが「神話の再現」によって豊穣を期する儀礼であったこと、儀礼の執行によって人心をまとめることによって、今で言う「地域の活性化」を図る趣旨が秘められていたことをうかがい知ることができる。

 与那原は元来漁業が盛んでなかったことからすると、豊漁を期するという趣旨は後世以降の付加とも考えられる。近世以降とくに首里・那覇から移住してきた士族出身の「寄留民」が当添区を中心として漁業に従事し、旧暦5月4日の豊漁祈願祭「ハーリー」(爬龍船競争)を主催、そのため旧来の農民が主催する綱引きと対抗する形になって町民の融和を図りにくい状況であったという。(17)その綱引きも現在のように東西に分かれて引くのではなく、親族組織(「門中」)による二分法になっていて、1回目は「寄留民」や見物客を排除した「門中綱」、2度目がこれらの参加を許した「シュニンジナ(諸人綱)」であったという。(18)
 

 
 著者は、本書に続いてほどなく『<近代沖縄>の知識人―島袋全発の奇跡』(吉川弘文館)を刊行、そして時を置かずして亡くなった。享年53歳。
 
 本書において著者は、沖縄の<内と外>およびその<境界>を、<過去と現在>の接点に身を寄せて学術的に検証して行く。その行き方=方法はまた、著者の生き方でもあった。先学の「近現代沖縄思想史」の研究と関連資(史)料を検証するなかで得たのは、歴史の体験者の「記憶」や、それをめぐる「記述」、「史実」を、「継承」することは「学びなおす」ことだ、とする視座であった。その視座を、沖縄の「今・ここ」に設定したうえで、沖縄思想史の方法と展望をこの2著によって示したことが、まず評価されよう。

 本書は、上記のスタンスを機軸に据えながら、沖縄戦と米軍占領史の研究において、「記憶をいかに継承するか」という視角から記述や論述を丹念にたどる。沖縄戦の「当事者」ではないが「関係者」である、という著者と後続の世代にとって、当事者の「記憶」をいかに語らせ、いかに聞き取り、いかに「記述」し、いかにおのれの「身体」と化していくか。論議の検証は、思想<史家>として実証的かつ精密である。それらの方法や問題意識は、米軍占領史の記述にも貫かれている。

 一方、<思想>史家として、個人史という「小さな物語」と、沖縄戦・米軍占領史という「大きな物語」の境界=接点に身を置きつつ、「沖縄」とその研究史から「越境」せんとする。

 思想史家・屋嘉比収の提起=提案は、残されたわたしたちにとっても、踏まえつつ・越えるべき課題として十分な手ごたえを感じさせる。それが、もうひとつの評価されるべき点である。
                     ( 2010/12/14)
 最近、ある篤志家からハイレベルのコレクションが壺屋焼物博物館に寄贈された。その詳細は、近い将来企画展として公開されることになっているので、その際にごらんいただくことになるが、作者のなかには国指定の重要無形文化財技能保持者、すなわち「人間国宝」に認定された本土の陶芸家も何名かいる。

 コレクションの中に、磁器の白い肌に藍色の釉薬で文様を表現する「染付け」の技法が高く評価された近藤悠三の香炉1点が含まれている。この人も人間国宝である。花を付けた梅樹が大胆に表現され、蓋は精巧な金工である。高台内には本人の自筆署名がある。〈磁器〉とは、白色でわずかに透光性を持つ薄手の焼物で、無地もあればいろいろな文様が施されたものもある。日本では有田焼がよく知られているが、沖縄では原料となる陶石が少なく、伝統的な陶芸には磁器は見られない。  沖縄では粘土を素材とし、釉薬をかけるか、無釉で焼き締めるかする〈陶器〉の生産が行われてきた。壺屋焼を代表とする。ただし、世界に冠たる陶芸の国・中国をはじめとして、歴史的に珍重されてきたのは陶器より磁器である。青磁しかり、白磁しかり、染付けしかりである。日本人が作品としての陶器を珍重するようになったのは、茶の湯の開始以降である。

 そんなことでわたしたちは、K氏に関する資料を持ち合わせていなかったが、企画展までにはその略歴や制作の動向などを掌握しなければならない。しかし、戦後、人間国宝に認定された陶芸家は20名近い。近藤悠三の作品集を探さなければならないが、今のところ見通しは立たない。少なくとも9月まではそうであった。

 10月の1日から11日まで、フランス文学専攻で現在は琉球大学の学長をしておられる森田孟進先生とフランスにでかける機会を得た。フランス所在の琉球関係資料の調査が目的である。2日目、森田先生目当てのパリの古書店を訪れた。アジア関係図書の専門店である。わたしが焼物博物館の館長であることを知った店主は、日本の陶芸家の作品集を重そうに抱えてきて、こういうものがありますが、と私の目の前に置いた。作家名を見て驚いた。

近藤

 なんとわたしたちが探していた作品集(図録)ではないか。そしらぬ顔をしてパラパラとめくってから脇に置いて、別の陶磁器関係、日本関係の書物のいくつかに眼を通した後、何気なく作品集の値段を聞いた。日本円に換算してほぼ3万円という。あらためて奥付をみると、発行は昭和54年、120部限定版の26番目、本人制作の陶板1枚付きで、定価は何と50万円。こんなお買い得はない。即座に購入することを決め、1500フランを支払った。帰国後気づいたことだが、本人の墨書による贈呈票まで付いていた。(写真は作品集付の陶板)

 後で森田先生から聞いたところによると、店主は奥さんに「安かったかな」と話していたというが、後の祭りというものだ。わたしにしても例のコレクションの寄贈がなければ、近藤悠三の作品に出会うこともなく、パリでその作品集を求めることもなかったはずだが、それにしても作者から贈呈を受けた人の手から、その後どのような経緯があって、パリの古書店にこの作品集が移ったのか。興味は尽きない。この作品集は、日本から地球の反対側に移った後、もう一度その反対側に戻って、壺屋焼物博物館の一角に一時期展示されることになる。地球を一周した作品集。その半周を手伝うことになった思いもかけない20年後の出会い。

 〈出会い〉の不思議さは、〈人〉と〈もの〉、いずれの場合も変わらない。   
 
                 『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)

はじめに
1.「与那原大綱曳」の「民俗」  2.<まつり>に包摂される<祭>-主体の変化  3.「与那原まつり」の組織・構成・空間  4.「まつり」の現在
おわりに

はじめにー問題の所在

 近年、「地域起こし」の一環として地方自治体が主催する自治体名を冠した「まつり」が、沖縄県でも盛んである。しかし、夏と秋に集中するこの「まつり」は、新聞の一面を割いて宣伝される広告に掲載された行事日程表を一覧する限りでも、地域の個性が全面的に開花しているといった趣は少なく、類型化・マンネリ化が見てとれる。にも関わらずこれらの「まつり」が盛んなのは、地方自治体が都市化あるいは過疎化、もしくは地域の変容を正面から受け止め、相応に「地域の活性化」を図ろうとしている姿勢の表われと解することができる。

 本稿が対象とする沖縄県与那原町は、那覇市の東に中城湾に面して位置し、かつては「山原船」(1)の離発着地・中継港としてにぎわった町である。現在でも沖縄本島中北部と南部を結ぶ中継地点にあるが、戦後における本島内交通網の整備と船舶の近代化によって、東海岸における海上交通の拠点としての役割は薄れ、町の姿やイメージも変容を余儀なくされてきた。

 与那原町は現在、行政区が14に分かれている。そのうち本稿が対象とする「与那原大綱曳き」の実施主体となってきたのは、王国時代に「与那原村」を称していた「6区」(以下、「与那原」あるいは「旧与那原」と記す場合もこの「6区」を指す)、すなわち港、江口、中島、新島、森下、浜田の行政区連合である。「与那原村」と並んで、「板良敷村」「上与那原村」「大見武村」と称していた3区は、現在でも集落単位で旧暦6月26日に小規模な綱引きを年中行事として続けている。


 与那原町の人口は平成2年度の集計で14,438人、面積が4,26平方キロメートルである。県下では渡名喜村に次いで面積の小さい自治体である。人口密度も那覇市に次いで2番目に高く、目下港湾の埋め立て計画が進行中である。近年那覇市のベッドタウン化が進み、農業人口も急減している。6区では、1,590の世帯数(平成2年度)に対して専業農家はわずか8戸(専業・兼業総数は173戸、平成元年度)である。(2)

 「与那原」という地名からすぐに連想されるイメージが「与那原大綱曳」であることは、町内外の人々が等しく認めるところである。ところが、近年までその「大綱曳」は、与那原町市街地の中核をなしているものの行政区域としてはあくまで町の一角に過ぎない前述の6区が主催してきた。その「大綱曳」は、他集落同様旧暦6月26日に催されてきたが、「サラリーマンが増え、農業従事者が少なくなったことや、刊行宣伝的要素が強くなったことなど)(3)から、戦後まもなくその後の一番近い日曜日に開催されるようになって今日に至っている。

 6区の町民の間には、規模が大型化し、開催日を日曜日に移行して後も、あくまで6区の伝統行事であるという意識が強かったが、次第に6区単独の維持に不安を生じるようになり、一部町民の間から町の「まつり」に転換・昇格し、その一部として維持する動きが生まれた。(4)これを行政当局が引き取って、「与那原まつり」と銘打ち、新たな町づくりを図ってから、すでに10年を越している。

 本稿では、「与那原大綱曳」から「与那原まつり」に移行する経緯とその要因、および「与那原大綱曳」を核とする「与那原まつり」の現状と問題をレポートすることを通して、「民俗」としての「与那原大綱曳」の変遷をかいま見ることにしたい。

 本論に入るにあたって、あらかじめ本稿のねらいとするところを述べておきたい。この稿は「綱引き」という「民俗」を他地域と「比較」しつつ、「綱引き」「一般」(分布、類型、原型など)について論じるものではない。(5)特定地域における「綱引き」を中心として、「伝えられる民俗」「変わる民俗」「つくられる民俗」をトータルに把握しようとする試みである。試みの前提となるのは、日本民俗学で「常民」と呼ばれてきた「民俗」を支える母胎を「(地域)住民」ととらえかえし、「伝統行事」である「大綱曳」を核にして住民(町民)が続けてきた「町づくり」の試みを「民俗」ととらえる視点である。

 戦後まもなく再開された「与那原大綱曳」は、以下で述べるようにその後曲折を経ながら結局一度も中断されることなく現在に至っている。まさに「それでも、大綱曳は続いている」のであるが、他方では「それだから、大綱曳は続いている」という側面も合わせ持っている。「民俗」を支え、変え、つくる者の主体と主体性を動的に把握したいという筆者の願望がこの稿には伏在している。この願望の背景には、筆者がここ18年ほどこの与那原町に居住し、一町民として直接間接にこの「大綱曳」に関わってきた経緯がある。

 近年かまびすしいほど叫ばれる「町づくり」「村づくり」は、「地域住民」がおのれの町や、村のイメージを、あるいは引き継ぎ、あるいは変え、あるいはつくる日常的な営みのことである。しかし、そのような営み自体はけっして近年の産物でも何でもなく、人々が悠久の過去から繰り返してきたことであり、「民俗」以外の何物でもない。本稿のタイトルを「町づくりの民俗」とする所以である。

 あるいは、次のような指摘も予想される。与那原町における町づくりの試みは、「民俗」ではな「歴史」ではないのか、と。その指摘に対してはあらかじめ、そしてとりあえず次のように答えておきたい。綱引きという沖縄全県下に分布する「民俗」「一般」の、与那原における「個別性」(それは「歴史性」でもある)を探るところから、他地域における「民俗」としての「綱引き」の<現在>をとらえ、<今後>を展望する方法を探るという実践的な課題を、本稿はかかえているのだと。(6)

 
(1)「戦前まで那覇や与那原、平安座、読谷村比謝橋などの中南部と、今帰仁村運天や国頭村奥などの北部、いわゆる山原(やんばる)地方とを往来した交易船のこと」「本島中南部の米・麦・豆などの穀類や黒糖・塩などの日用雑貨と、山原地方の材木・薪炭などとの交易を主とした」(名嘉真宜勝「山原船」沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』下巻、p765)。その関係で与那原は、近隣の町や村から物資が集まる陸上交通の要所でもあった。主に荷馬車が使われたので、この方面の運送に携わる人たちも多かった。
(2)以上のデータは平成3年度町勢要覧『与那原』(同役場)による。
(3)『与那原町史 序説・むかし与那原』(与那原町役場、1988年)、p307 
(4)照屋義実「魅力と活力ある地域づくりをめざして」(幸地進編『さきがけ』1986年)、p6
(5)沖縄全県下の綱引き事例を収集し、比較した論文に平敷令治「沖縄の綱引」(植松明石編『神々の祭祀』所収、凱風社、1991年、pp275~311)がある。
(6)筆者の別稿「祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐってー」(琉球大学『島嶼社会の社会・人文学的研究』、1993年、pp.69~93)も、沖縄における綱引きの<現在>と<変遷>そ視野に入れながら把握するひとつの試みである。

(『国立歴史民俗博物館研究報告第60集』 1995.3 同館)(以下同じ)

 

 
 高嶺久枝さんが、琉球舞踊一座の座長として巣立つという。去る2月に、那覇市立壺屋焼物博物館が開館。その初代館長となったわたしも、お客さんに見てもらわなければ存在意義のない施設の長だから、「私設」「公設」の違いこそあれ、久枝さんと同じ立場にある。今後のご健闘を祈りたい。 
 久枝さんは「演じ手」である。それに対して、わたしの職業上の関心は<もの>の「作り手」である。表現されるものに演芸・陶芸の違いこそあれ、日々「芸」に精進している点で、どこかに共通するところがあるはずだ。
 
 高校野球の裁監督ではないが、「大胆かつ細心」。これなども表現のスタンスにおいて、両者に共通するように見受けられる。世阿弥が演技のおおらかさと繊細さについて、『花鏡』(中央公論社版)のなかでつぎのように書いている。

 能は繊細に演じなければ面白くない。しかしいっぽう、繊細な細部ばかりに注意していると、演技表現がぜんたいとして萎縮して見える傾向がある。また逆に、表現をおおらかにしようと努力すると、とかく芸のみどころが少なくなって、全体に平板になる傾向がある。このふたつの努力の関係と調整がじつに重大な難事である。

 当面の心構えとして、彼は「繊細であるべき細部はどこまでも繊細にして、一方おおらかであるべき部分はあくまでおおらかに演じる」こと。ただしその区別ができるためには、十分に師匠の教えを請うて能の本質を知りつくすようにしなければならない、と言っている。そのうえで、要領として「舞や歌、その他さまざまのしぐさの万事にわたって、心は繊細にはたらかせ、からだはおおらかに動かす」ことをあげている。

 「こころは繊細に」、「動きはおおらかに」。能の<幽玄>を表す表現だろうが、優れた陶芸家の芸にも通じるところがあるように思われる。陶芸家の場合は、逆も言えるかもしれない。「こころはおおらかに」、「動きは繊細に」。
    
      ( 『琉舞かなの会発足記念誌 踊り愛(かな)がなと』(1998.11)



 近世琉球における服喪の制は、1667年4月23日に王府から布達された「不浄定」によって方向が定まった。時の摂政は羽地朝秀。彼のヘゲモニーのもとに示達された一連の布達類を総称して「羽地仕置」と呼んでいる。その中に収められた「不浄定」は前月16日付けの「葬礼之定」に続いて出されたもので、内容的にはこれと連動するものである。「不浄定」の内容は、次の通りである。

 一 祖父母父母夫婦兄弟は三拾日の事
 一 継父母伯父母弟妹子孫は弐拾日の事
   但弟より下は髪差不抜事
 一 甥姪拾日の遠慮の事
 一 従弟より下は五日遠慮の事
 右此中父母より下親類中差合の刻、不依遠近に一か月の忌にて候付、如此申渡候事
  (寛文七年)羊四月二十三日

 この布達によれば、従来は親族関係の遠近にかかわらずひとしく30日の間、喪に服することになっていた。それを今回、喪に服すべき親族を祖父母・父母・夫婦・兄弟、継父母・伯父母・弟妹・子・孫、甥姪、従弟の4種に区分けし、それぞれ30日、20日、10日、5日と服喪の期間を定めたのである。

 改革の理由について「不浄定」は何も述べないが、「葬礼之定」を見ると、「孝行」を名目として祭儀が華美に流れ、子孫に出費多端の結果を招くことになり、ひいては「奉公」方まで疎意・粗略になるような状況があって、それを牽制することが改革の趣旨であることが述べられている。今回の服喪制の改革にも同様の趣旨が伏在していたことが推察できる。ただし、人はなぜその親族の死にあたって喪に服さなければならないか、その理由は述べられていない。

 この「不浄定」に見える「親類」という用語が、父方親族と姻族の双方を指すことは理解できよう。ただし、後に父方親族、姻族を用語上それぞれ「一門」、「親類」(たとえば「系図座規模帳」1730年)、あるいはそれぞれ「本宗方」、「外戚方」(「服制」、後出)と区別し、双方を併せて呼ぶ場合は「一門親類」と称したことからすれば、ここにいう「親類」はいかにも内容があいまいである。そして、細則が別に定められていたかどうか、それも明らかでない。

 近世琉球における服喪の制(服制)が、制定の論拠を明らかにし、親族関係の遠近を細部にわたって規定したうえで施行されたのは、18世紀に入ってからである。

 1725年制定・37年改定の「服制」は、「本宗方之服制」「妻たる者夫家之為之服制」「外戚方之服制」「出嫁之女本生方之服制」というように、喪に服する側の立場から親族を4つに区分している。その内容を一見すると、たとえば本宗方の場合、服喪期間が50日、25日、20日、10日、5日の5つに分かれ、親族については「父母」「継母」に始まり、「又姪孫」に至るまで52に分かれている。親等でいえば5親等までの規定である。

 なぜ、人は親族の死去に当たって喪に服さなければならないか。1732年に公布され、以後地方支配のテキストとなった蔡温の「御教条」は、つぎのように明記する。

本宗外戚とも忌定の儀は、服制を以て申し渡し置き候通り、いささかも緩疎無く相勤むべく候。この儀、疎略いたし候はば、人情相廃れ、五倫の妨げは勿論の事候。上下ともその心得これ有るべき事。

 すなわち、世間に「人情」を維持すること、具体的にいえば「五倫」の道、すなわち「父子の親」「君臣の義」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」を社会関係の規範として維持することであった。「御教条」は、「士農工商之働」7ヶ条、「人倫之働」13ヶ条、「諸事之訳」12ヶ条の32条にわたっているが、その根底には羽地に続いて近世琉球の改革者となった蔡温の儒教思想が一貫している。

 近世の琉球には、士族・農民(「工商」も身分的には「百姓」)の身分的区別があったが、儒教倫理の実践はまずもって士族に求められた。具体的にはどのような形で喪に服することになっていたのだろうか。「服制」付則は、装束に関しては男女とも年齢や官の上下に関わりなく「髪差(かんざし)」を抜き、「大帯」をはずすよう求めている。簪は、身分や位の上下、男女の違いによって素材や形・文様が異なっていたが、国王から農民までいずれも装着することになっていた。服喪に当たって「髪差」を抜くことはすでに「羽地仕置」に明記されているが、髪結いを解くとともに、士族が正装のとき着用する大帯も禁止されたということは、要するに自宅謹慎すること、公職にある者は公務を控えるということであった。

 当然、正月他の家内の祝儀、すなわち「賀礼」も控えるよう指示された。たとえば本宗方の忌50日の場合、「拠ん処無き」公務に差し当たるときは二七日(=14日)で忌みを終えて出勤すること、と記すが、賀礼の停止期間はそのまま二七(14)ヶ月となっている。

 服喪に関する細則を今少しながめてみると、たとえば忌中は白衣を着用すること、本宗20日内に盆に当たった時は行事を取りやめ、また婚礼の儀についても可能な限り取りやめること、やむを得ない事情があるときは軽く行うよう指示している。ただし、「農工商」に従事する者は、「家業の務は毎日衣食の営に相係」るため、たとえ忌中であっても家業に精励するよう求めている。

 この「服制」は、宮古・八重山のような離島まで同時に布達され、地方役人にも遵守が求められた。中国渡来で蔡温と同族の蔡文溥が、儒教倫理を柱として著した『四本堂家礼』(1736年)は、後に首里那覇の士族ばかりでなく離島の地方役人の間でも書写され、家礼のモデルとされたが、それでは忌50日中の殺生、夫婦同衾、読書を禁ずるなど、より細かい指示を与えている。「服制」改定の1年前の著述であることを見れば、儒教倫理による服喪の思想は、この時期すでに蔡温一人のものではなかったことがうかがえるのである。
  

         孝本貢・八木透編『家族と死者祭祀』(早稲田大学出版部 2006.2)