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思索のためのノート

まずは、「哲学ノート」。この間に「発行」したHPやブログの記事、およびIT紙面上には未公開の活字化された論考やエッセイを、編集しなおし、公開。

 脚本家として伊良波尹吉と直接交渉があった山里永吉は、俳優・伊良波尹吉のことを「確かに一種の天才であった」と述べている。続けて、一を聞いて一○を知るといった明敏な頭脳をもっていて、それに美男子である上に踊りも三味線もお手のものというのだから、役者としては鬼に金棒である、とした。さらに、歌劇作者としても比類のない天分にめぐまれていて、加えて、すぐれた踊りの振り付け師でもあったと高く評価している。

 山里は「一種の天才」と表現する理由を、当時首里(士族)出身でなければ沖縄芝居の世界では出世しないといわれた風潮のなかで、与那原の平民出身、しかも文盲でありながら歌劇のヒット作を次々と生み出し、また観客の耳目を引く創作舞踊を繰り出す彼の足跡を追うと、それ以外に表現の方法がないからだと述べている。

 眼前の光景や、耳にする雑誌の物語、公演で訪れた八重山の歌や踊り、ほとんど暗唱していたのではと言われる組踊りの詩章や内容、直接見聞きした本土の演芸など、あらゆるものが彼の創作の素材となった。その素材を、どのように調理すれば観客が喜ぶ歌劇や踊りに生まれ変わるか、その術を彼は心憎いばかりに心得ていたと思われる。

okuyama

 周知のように「御冠船踊り」とは、国王交代に当たって中国皇帝の使者として訪れる「冊封使」を歓待する宴で演じられた舞踊と組踊りの総称である。創作・構成・演出・演戯のすべてが国策として遂行された。演じた士族(御冠船役者)たちが、廃藩置県によって禄を失い、市中で組織的に芸を売りはじめたのが「沖縄芝居」の始めとされる。しかし、急激に変化する社会情勢の中にあっては、王国の威光だけを頼りに宮廷芸能を売ることには、相応の困難があった。宮廷芸能をベースにしながら、テーマ・衣装・テンポなどに庶民の日常性を取り入れた新たな劇や舞踊がここに誕生する。

 伊良波が「役らしい役を張れるようになった」のは十九歳、明治三十八年のことだという。当時の主だった役者は、芸を演じるだけでなく、劇のシナリオづくり・演戯指導、踊りの振付、劇団の運営と多忙を極めた。それがため劇団内の内紛や劇団間の過当競争などによる浮沈・離合集散に明け暮れしたが、またそうだからこそ、役者たちは観客に受ける作づくりに精根を傾けたのである。当時の観劇の主体は、マスコミや一部の知識人から「田舎の芋作及び婦女子」「無知のアフィーとアングワ ー」と呼ばれて低級視された一般庶民、とくに「婦女子」であった。しかし、そのような人々こそ時代や社会の変化を末端で、しかも直接的に体現する人たちであった。

  「田舎育ち」で「無学」で、幼少の頃赤貧をなめ尽くした伊良波が、猛勉強と舞台における実践の積み重ねで得たスタンスとは、おのれの出自に戻り、あくまで庶民の側に身を置き続けること、言い換えれば観客と等身大の位置からその夢と現実を映す作品を創り続けることであった。
 しかし一方で、彼の創作や演戯の射程は、組踊りや古典舞踊のような宮廷芸能をしっかり捉えていた。仲程昌徳は、伊良波の歌劇「奥山の牡丹」には「孝行の巻」など四篇の組踊りが参照されているという。象徴的な出来事は、伊良波が真境名由康、島袋光裕とともに訪れて脚本を依頼した結果生まれた山里の名作「首里城明渡し」における国王尚泰の演戯である。共通語で書かれたセリフは、俳優が方言に改めて演じたというが、伊良波の翻訳・演戯は尚泰の娘である漢那憲和婦人をしてそっくりと言わせ、息子尚順男爵に二度と見たくないと言わせたほどの極め付きであったという。

 社会的には最下層にある女性を代表作「奥山の牡丹」の主人公にしたてて市中の女性の紅涙を絞り、国王の役柄でその子女をうならせた伊良波の「遠近法」こそ、生み出す歌劇や舞踊の巧みな構想=構成力を支えたものであった。山里のいう「一種の天才」を、わたしはそのように理解している。

新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説(2000.3)

 梅雨のまま


 降らるるままに


 ウグイス、聞こえ
 

 アブラゼミ、聴く
地球の上の・・・
 
 地球の上のどこでも

 空は青く、雲は白い。

 地球の上のどこでも

 海は光を浴びて、輝く。

 地球の上のどこでも
 
 光を浴びて、生きたい

 私たち・・・、がいる。

 << 作成日時 : 2010/10/13 20:03 >>
あたりまえのように

 あたりまえのように

 母がいて 母がいた

 あたりまえのように

 北の国に コスモスが咲いている

 あたりまえのように

 電車が走る

 あたりまえのように

 僕がいるのか?

 << 作成日時 : 2010/03/10 17:42 >>


予感

 生 とは

 身近な予感

 死  とは

 遠くない予感

 生死 とは

 透明な予感

 << 作成日時 : 2010/03/10 21:57 >>


 昨年から今年にかけて、いわゆる「壺屋焼」と産地・壺屋をめぐる人、モノ、情報、あるいは技の交流史について、私たちは2つの成果を得ることになった。ひとつは、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』(同成社)の刊行であり、もうひとつは、那覇市立壺屋焼物博物館(「壺屋焼物博物館」)が開館10周年を記念して目下開催している「壺屋焼―近代百年の歩み」展である。
 
 私が壺屋焼物博物館の準備室長として開館準備に追われていたころ、八丈島に壺屋焼が散見されるという情報を東京都教育委員会にお勤めの小田氏から得た。氏は島まで同行してくださったうえ、氏の仲介で、さる酒造工場から壺屋焼の酒壷1点を寄贈してもらうことになった。それを開館に間に合わせて展示できたのだが、それから10年が過ぎたことになる。
 
 小田氏は、無人の小笠原島をはじめとする県外遺跡から出土した壺屋焼を丹念に尋ねて回り、7つの都府県の70に及ぶ遺跡の出土遺物から壺屋焼を探り出したばかりか、マリアナ諸島まで足を伸ばして移民・漁民の足跡と随従する壺屋焼の来歴を調査探訪すること30年余。この間の研究成果を「黒潮圏の壺屋焼」としてまとめたのが前記著作である。このたび、年間の優れた沖縄研究図書として沖縄タイムス社から「伊波普猷賞」に選定されたのは、喜ばしいかぎりである。
 
 「海を渡った壺屋焼」という意味でまたもや私事に及ぶが、壺屋焼物博物館長在任の頃、フランス・パリの国立人類博物館所蔵の壺屋焼を調査する機会に恵まれた。そこで、昭和10年代の製作が明らかな赤絵皿と赤絵酒器を見つけて驚いた。管見の及ぶ範囲で戦前戦後の作を通じて、壺屋焼にこれほど達者な筆致の赤絵を見たことがなかったからだ。ところが何と、今回の特別展に同じ時期、同じ作者の作品と見られる赤絵の皿と酒器が展示されているのである。

 「陶芸」の名がつくことはあっても、つくられたものは日常雑器が大半を占める。したがって、器に作者名や製作年代が記されることはほとんどない。そのため、注目されるべき「作品」があったとしてその製作年代を追うには、類似品との比較とあわせて、そのモノをめぐる人や、文献の探索、聞き取り調査などがどうしても欠かせない。モノを追い、人を訪ね、情報を捜し求めて、その結果得られたモノ、物故者も含めて出会った人、発掘した情報を総合し、一つのストーリーをつくりあげるには、多くの時間と労力とカネを必要とする。

 その成果を、研究者は論文や著作に、博物館では展示にまとめる。今回の特別展では新しく発掘された未知・未見のモノ、人、情報がふんだんに提示されていて、開館から10年を経た壺屋焼物博物館の調査研究の進展が十分うかがわれる。「第1期」の展示づくりに関わった者として感慨深い。新しい物語、新しい展示が資・史料に裏打ちされた問題提起であるかぎり、提起に躊躇(ちゅうちょ)してはならない。博物館の展示は常設展であれ、企画展であれ、常に問題提起的でなければならないと常々思っている。

 この特別展が、研究者やつくり手、愛好家にとって示唆に富む「刺激的」な企画となっていること、請け合いである。

                                   (「沖縄タイムス」09.1.22)
 以下は、志賀直哉の代表作「城の崎にて」からの抜粋である。

 蜂は羽目のあわいから摩り抜けて出ると一ト先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で丁寧に調べると少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へシッカリと張ってぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなって飛んで行く。

 谷崎潤一郎が『文章読本』の「実用的な文章と芸術的な文章」の中で引用しているくだりで、彼は次のように評している。

・こういう風に簡単な言葉で明瞭に物を描き出す技倆が、実用の文章においても(文学作品とー明王)同様に大切なのであります。
・一匹の蜂の動作を仔細に観察して、ほんとうに見た通りを書いていることが分る。そうしてその書いてあることが、と云うのは、この場合には蜂の動作でありますがそれがはっきりと読者に伝わるのは、出来るだけ無駄を切り捨てて、不必要な言葉を省いているからであります。
・こんな風に短く引き締め、しかも引き締めたために一層印象がはっきりするように書けている。

 そしてこの段を、「最も実用的に書くと云うことが、すなわち芸術的な手腕を要するところなので、これがなかなか容易に出来る業ではないのであります。」と締めくくっている。

 「実用的な文章」、すなわち「分かりやすい文章」に必要な「簡にして要を得る」書き方には、「芸術的な手腕を要する」というところが、まさに我が意を得たり。「書く」ための条件として、まずは「観る」力が求められる。そして、無駄な線を省き、必要な線はしっかり描き込む「デッサン」力も。「観察力」と「デッサン力」。「創る」という営みに共通する要因だと思われる。「デッサン力」に含まれているかもしれないが、「構成力」も別に書き添えておきたい。

 以上の3点を「技術力」と総称するならば、そのうえで足したり引いたりする力。それが「表現力」かと思う。谷崎の文体にも二つのスタイルがある。簡にして要を得た表現で「刺青」、延々と続くスタイルが「春琴抄」。「余韻(余白)」を残すか、描き込むか。「演奏」や「演技」にもつながるテーマかもしれない。

 「書く(描く)力」は「読む(観る)力」を必要条件とする。谷崎が最終的に言いたかったのは、そのことだと思われる。
 奄美・加計呂麻島の諸鈍は、大きく湾曲する諸鈍湾に面し、沖縄でも次の琉歌で知られている閑静な集落である。

 諸鈍めやらべの雪のろの歯口 いつか夜の暮れてみ口吸はな
 (シュドゥンミヤラビヌ ユチヌルヌハグチ イルィカユヌクリティ ミクチスワナ)

 歌意は、「諸鈍乙女の歯は雪のように白く美しい。早く日が暮れてみ口を吸いたいものだ」。外間守善『南島の叙情 琉歌』(中公文庫)からの引用である。「み口吸はな」という率直かつ大胆な表現がポイントだが、乙女の歯の白さに、長く続く浜の白さを含意させているところも、この歌のみどころだろう。
 十数年前になるが、この地を訪れたときの印象を民俗学関係の個人誌に収載させてもらったことがある。以下はその再録である。

 今年の春初めて訪れた諸鈍は、わたしには十分美しかった。海岸線にならぶデイゴの巨木の側から見る諸鈍湾の穏やかな水面と、そこに映る対岸の濃緑の山陰がとても印象的だった。左手は外界に開かれているが、そこは南の方角に当たっていて、すなわち沖縄側に向かっているのである。聞けば、デイゴの花の咲く頃、山原船がこの湾を訪れたともいう。

 『海南小記』は、材木や糸芭蕉を積んだ山原船が瀬戸内を訪れ、また久高の漁師も湾内でエラブウナギ捕っていたと書く。これらの船が大風を避けて、途中でいかりをおろすこともあったのだろう。柳田のいう「那覇のうかれ女」もここまでは来なかっただろうが、相応のにぎわいは想像できる。

 沖縄から訪れる船の形も今は見えない。八十をとうに越した物静かなお婆さん三人と七十過ぎの元気なおじいさんが、椅子を持ち出してデイゴの下で午後のひとときを過ごしていた。この人たちは、もう何年海を見て暮らしてきたのだろうか。そういえば二十年近く前、慶留間島で暮れ行く海を眺めているお年寄りたちの姿に胸を打たれた記憶がある。

 それぞれの脳裏に去来する思い出は、あるいは違うところもあろうが、共有するところも多いはずだ。それが島の生活というものだ。互いに話す時間よりも、黙っている時間の方がはるかに長いだろう。この人々、この場に言葉はほとんど不要だ。過ぎ去る時間を超越した趣きが、かえってわたしたちを救う。

 奄美の島々は、開発の荒波にさらされ、リゾートの声もちらほら聞かれたが、諸鈍のお年寄りたちの姿とたたずまいは、究極のリゾートを想わせた。さて、民俗学にとってリゾートとは何だろうか。
                    (南島研究会編『南島研究』32号、1991.10)
 近年まで沖縄では、来客に際しての茶の出し方は、本土のそれとは違っていた。土瓶に茶を入れ、湯を注いで湯のみ茶碗とともに出す。客は自分で茶を注いで、何杯でも飲む。湯や茶を注ぎ足すのが歓待の仕方で、本土のように一杯だけ出してそのまま、というのは主客どちらもきらった。比嘉春潮は人が死んだ時に備えるのが一杯きりだからだろう、と述べているが、祖先の霊前や仏前にそなえるのが「一杯きり」ということにもつながるのだろう。「茶の湯」の作法や思想の普及度の違いや、民間レベルにおける「主客」とか「接待」に対する考え方の違いも関係するのかもしれない。

 沖縄で愛飲されてきたのは、中国産の「シーミーチャ」(清明茶)である。最近はジャスミン茶ともいう。祖先の霊前に供える茶は「ウチャトー」(お茶湯)、その茶碗は「ウチャトー・ヂャワン」と呼ばれる。いうまでもなく仏教の影響である。専用の茶碗を仏具屋で売っているが、「壺屋焼」ではない。産地を特定する必要もないような本土産である。一般に壺屋焼は下手物とされ、本土産が珍重されたが、それは近代以降のことで、王国時代はやはり中国産か琉球産だったであろう。

 琉球に茶や喫茶の法が伝わったのは、中国経由か日本経由か定かでない。
 琉球から中国に、恭順の意を伝える公式の使者を初めて派遣したのは、1372年である。琉球王は皇帝の臣下という形の外交だから、中国式の喫茶・点茶の法も必須の知識・作法だったと考えられる。王の即位に当って皇帝の名代「冊封使」が来琉し、王に任ずる冊封の式典を挙行する慣例は、1404年に始まる。国王から冊封使に茶を献ずる方式は、あるいはこの時には始まっていたのか。陶磁器で見ると、首里城の発掘調査で、14世紀半ば頃のものと見られる天目茶碗が出土している。金武正紀によれば沖縄の遺跡から出土する天目茶碗や茶入れは、14~15世紀が主だという。いずれも中国製である。

 一方、仏教は文献上で見ると13世紀から14世紀にかけて、日本から伝来したと考えられる。仏前に茶をそなえる「茶湯」も同時に伝わっただろう。だとすると、仏前に茶を供えるパターンと、公式の接遇の茶。どちらが先行したのか、今のところわからない。

 時代はくだるが、最初の冊封使録である陳侃の『使琉球録』には、円覚寺、天界寺に遊んだおり、寺で茶を振る舞われたという記述がある。1534年のことである。同書によれば、寺僧は「烹茶の法」を心得ている。「古鼎を几上に設け」、湯をわかし、沸騰する頃あいに、「茶鍾」(茶碗)に「茶末」を一匙盛り、そこへ湯をそそぎ、「竹刷」(茶筅)でたててから、ややあって客にすすめる。その味は、はなはだ清らかである、というのだ。ここでいう「茶鍾」は天目茶碗だったのだろうか。茶の点て方は中国式ともいえるし、「茶の湯」方式ともとれる。茶は中国産だったのか、日本茶だったのか。この年、茶の湯の開祖とされる村田珠光はすでになく、千利休の師・武野紹鴎は剃髪したばかりの34歳である。

 さらに時代はくだって、1603年から3年間滞琉した浄土宗の僧袋中は、著書『琉球往来』の中で、滞在中の堺の茶人を招き、道具を取りそろえたうえで茶席を設けたことや、国内に池坊の門流がいて諸道具をそろえて立華を行っていたことなどを記している。道具を陶磁器に限って見れば、「天目、建盞、茶碗」「真壺」「真楽、瀬戸物」「青磁花瓶」がリストにのぼる。一方では、円覚寺で仏前に「奠茶」「奠湯」がなされることを記す。

 袋中が「近日和堺茶ノ名人出来」と記す茶の湯の名人が誰か、明記されていない。わたしたちの頭にすぐに思い浮かぶのは僧喜安である。喜安は1600年、泉州堺から来琉し、茶道で国王尚寧に仕えている。1609年の島津入りに当たっては琉球と薩摩間の折衝役を務め、尚寧が薩摩・江戸に上った時は随行している。帰国後、王府内に茶道職「御茶道宗」が設けられると、その任に当たって茶道の普及に尽くした。

 島津入り以降、琉球は形のうえでは王国の体裁をとりながら、実質的には幕藩体制下に組み込まれることになった。それからは、薩摩・江戸との各種交流が頻繁になり、そのため、和風文化の素養を身につけることは、公務をあずかる士族にとって単なる教養ではなく、国家を維持するうえでの職務と位置づけられた。その推進者が1666年、摂政の位について各種の改革を断行した羽地朝秀である。彼が制定した「羽地仕置」に「学文」(学問)、「算勘」など11の学芸・芸能を記し、そのうち一芸すら習得していない者は、たとえしかるべき身分であっても国務に当たらせないことを明記していて、その芸の一つに「茶道」や「立花」も列記されている(1667年)。

 これらの芸に対する素養が上薩・上江の際に不可欠とされたのは言うまでもないが、国内で公務として披露される実践の場は王城内の南殿であった。薩摩から琉球の外交・内政全般にわたる目付役として派遣され、3年単位で常駐する在番奉行を接待することを主目的に作られた建物である。創建は「天啓年間」(1621~1627)と記録される。招請の方式は純和風であり、茶道や立花、座敷飾りの作法がこの場で行われたと考えられる。招請は公務であった。そして、薩摩・江戸などにおける所作・振る舞いのための学習の場でもあった。在番奉行や付け役の士は、王府の役人にとって和風芸能の師匠であり、相談役を兼ねたことになる。当然茶の湯についての指導も受けたであろう。

 沖縄県立博物館に残る「御座飾帳」は、1790年から1793年にわたって7回行われた在番奉行と付役衆の招請に際して行われた南殿・書院・鎖之間などの座敷飾り、床飾りを記録したものである。床には招請の趣旨に沿う画幅が飾られ、違い棚には相応の工芸品が並ぶ。茶の湯関係で言えば「台子一組 御茶具揃」が準備された。もちろん、飾られる絵画・工芸品・道具の類は国の威信をかけた水準のものであった。公式に招請するからには、そのレベル如何は接遇の質とともに、薩摩と琉球の政治関係・力関係を象徴するものであっただろう。事実、「御座飾帳」とともに伝わる「御書院御物帳」に記される王府の書画等の目録には、中国皇帝の直筆から中日の著名な画家・書家の作品が並び、相当のレベルの作品を王府が所蔵していたことを示す。ただし、書画のみの記載で、茶の湯に使われた陶磁器類については言及されないのが残念である。

 文献や歴代の陶工家譜に見るかぎり、「茶陶」制作に関する記事の初出は平田典通(1641~1722)のそれである。宿姓家譜によれば、彼は1667年、王府の命を受けて「御茶壺」「御茶碗」を制作・進上した。この年は、羽地朝秀が士族に茶道・立花他の稽古を督励した年でもある。翌68年には立花用と見られる「砧形御花入」「仙人の花入」「細口花入」「四角御菜皿」を書院に納めて報奨される。そして80年には「赤焼」の炉、「茶家」(土瓶)、「御天目」、「御茶壺」、「屋良部(ヤラブー注)之葉形皿」を「白薬掛」によって制作し、書院に納品する。平田の功績の中で茶陶に関するそれはむしろ一部である。しかし、茶器や花器を国内で生産できる態勢をつくることは、羽地の政策に陶芸の分野で連動するものであり、その功績は高く評価されよう。

 平田典通の次代を担った陶工は、仲村渠致元(1697~1754)と仲宗根喜元(1700~1764)である。仲村渠は湧田村で代々陶工を務めた家筋に生まれ、王府の命で八重山に陶芸指導に派遣されたり、薩摩に陶芸の研修に行くなどして、陶芸界に貢献した。一方、仲宗根は越来村の農家に生まれた。平田典通の子典寛の指導を受けて頭角を表し、18世紀前半の琉球陶芸界の牽引車となった。「茶陶」関係の家譜記事では、仲宗根が1729年に「建盞」「志武喜(渋きー注)御茶入」「御天目」を焼き出し、35年には命を受けて「御天目二対」を焼成、天王寺・天界寺に祭器として納品している。1737年には「大花瓶一箇」「大丁字風呂一個」「御茶入一個」「天目一対」を書院用に焼成、翌38年には「御濃茶御茶碗」「御花入」を、1748年には「南京茶家」「湯煎鑵」「茶庫」を「内府」に献上している。仲村渠は1728年に上意を受けて「南京茶家」「香合」「花入」を制作・納品している。残念なことに、茶陶の類でこれらの陶工の作品は何一つ残っていない。
 この時期、士族を中心に「私的」に「茶の湯」をたしなんだという記録も未見である。

 以上を要するに、当初、天目茶碗や茶入れが輸入され、茶碗に茶を点てて仏前に供えたり、公式の場で呈されたが、茶の普及につれて、土瓶に茶を入れ、湯を注いで茶碗に汲んで飲む形で一般に普及した。一方、日本から「茶の湯」が禅僧を中心に伝わり、堺の茶人なども渡来して王府を中心に士族の教養として広がるが、一般の暮らしまで浸透しないままに終わった。茶陶としては、歴代の著名な陶工が制作し、王府に進上するなどの記事は残るが、現在残る遺品はない、ということだ。

 近年はやりの「ぶくぶく茶」は東恩納寛惇によれば、木(桑)製の大鉢で飲まれたようだが、古くはどうだったのだろう。後考を期す。
             
          (壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)
 パリにある国立人類博物館に、一連の沖縄陶器コレクションがある。

 その概要については、すでにヨゼフ・クライナー教授が報告しておられる。教授によれば、これらはもともと「Baron Guy 男爵」のコレクションである。男爵は外交官だったフランス人から入手したとされる。この外交官が1939(昭和14)年に沖縄を訪れた際に手に入れたもので、32件ある。番号は「47.11 から47.1.48 」まで。一部に尚(順)男爵による「マーク」があるという。(Josef Kreiner(Ed.) Sources of Ryukyuan History and Culture in European Collections, 1996,Germany)。

 わたしたち(川平博一・渡名喜明)は1999年1月8日、同博物館を訪れ、クライナー教授報告の「Baron Guy 男爵」コレクション「32」件のうち、28件を確認できた。以下に掲載するのは、その目録である。調査は、同館のCristine Hemme 女史のご協力によるものである。女史のご好意でコレクションの目録もコピーさせていただいたが、諸般の事情でその紹介は別の機会に行いたい。
 その他に、資料棚から壺屋焼の徳利1点と紙製の張り子人形1点も確認できたので、録の最後に追加した。

 以下では、同館所蔵の沖縄陶器について、概要を述べることにする。「47.1/21-1 」以下は、資料添付の番号であり、寸法単位はcmである。なお、尚順男爵の「マーク」入りの作品は見当たらなかった。

資料目録と注記

1 47.1/21-1 魚文・帆船文急須
 高さ9.3(蓋まで) 最大径9.3(口先まで) 底径5.7
「民藝 琉球特産館作」の印刷赤ラベルあり。「\100」の価格ラベル付き。
〈注〉いわゆる「長太郎焼」といわれる技法による。全体に黒釉を施した後に、線彫りで文様を描き、文様の地を掻き落とす「掻き落とし」の技法による。胴部を上下二段に分け、上部に魚と帆船、下部に波を描く。蓋の裏側は白化粧をして後、透明釉をかけている。高台に銘はない。「琉球特産館」の所在などは不明。

2 47.1/22-1 魚文・帆船文サキヂューカー
 高さ5.7 最大径14.2( 口先まで)
〈注〉泡盛を入れる器で、平たい急須の形をしている。内部に飴釉を施す。胴部は面取りになっていて、技法・文様は前記1「魚文・帆船文急須」と同じ。同一職人の作と考えられる。高台に銘はない。

3  番号なし 魚文杯
 高さ2.7 口径4.4 高台径2.1 (以上平均)5個。
〈注〉上記資料2 「魚文・帆船文サキヂューカー」とセットと考えられる。

4 47.1/23-1 赤絵菊文サキヂューカー 高さ6.8 最大径14.7( 口先まで)
「民藝 琉球特産館作」の赤ラベルあり。「\210」のラベル付き。口一部欠損。表は緑・黄の釉薬も。内部は透明釉。
〈注〉白化粧を施して透明釉をかけ、一度焼上げてから、赤・黄・緑などで上絵付けを施し、再度焼いて仕上げたもの。蓋裏や底部にも白化粧をかけ、透明釉が施される。典型的な壺屋焼の技法である。菊花や幾何文などの筆使いは達者で、熟練した陶工の作品と考えられる。

思索と試作http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventrylightpreview.jsp?time=1339577937154#


5 47.1/24 赤絵菊・幾何文カラカラ            
 法量計測漏れ。赤の他に緑・青・黄の施釉。注ぎ口・口回りにも赤釉。胴部面取り。
〈注〉前記3 と技法・文様が似通っていて、同一作者かとも見られるが、使用の痕跡(底部の汚れ)がある。高台に銘なし。

6 47.1/1 赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿
 高さ7.2 口径27.7 底径10.0 青・黄の施釉もあり。
〈注〉白化粧に透明釉をかけて焼いた後、赤絵を施す。牡丹や菊、鳳凰の筆致が見事で、当時の職人の技がハイレベルであったことをうかがわせる優品である。裏にも赤絵の文様が施される。今回調査した作品の中で群を抜く優品である。

思索と試作-akaezara

7 47.1/2 三彩皿
 高さ6.4 口径25 高台径10.1 高台内に「琉球」の判、高台につり下げ紐用穴2有り。裏は黒釉を施す。
〈注〉現在の壺屋焼でもよく見られる技法。白化粧の上にコバルトと飴釉で斑点文をほどこす。壁にかけることを意識した紐用穴の存在も、食器としての本来の用途に加えて、壁飾りとしての用途を意識していたことを示す。

8 47.1/3 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ3.5 口径17.6 口径16.6 高台径8.1 。「琉球古典焼」の赤ラベルが貼られる。高台につり下げ紐用穴2有り。
〈注〉線彫り・掻き落としによる魚文皿。高台に銘はない。以下、資料25までの20枚が同一技法で、大きさもほぼそろっていることから、同一職人あるいは同一工房の作品と考えられる。1000度以下の低火度で焼き、絵の具類で色を施したと見られる。高台に紐でつり下げるための穴もついているが、作品としての完成度は低い。安手のお土産品としてつくられたと推察される。「琉球古典焼」のラベルには上下に帆船、下部に魚文が木版風に表現される。

9 47.1/4 「琉球古典焼」鳥文皿
 高さ4.0 口径16.6 高台径8.1 。高台につり下げ紐用穴2有り。

10 47.1/5 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ2.9 口径16.6 高台径9.0 。高台につり紐。

11 47.1/6 「琉球古典焼」鳥花文皿
 高さ4.0 口径16.2 高台径8.4 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。高台につりひもあ
り。

12 47.1/7 「琉球古典焼」鳥文皿
 高さ3.7 口径14.7 高台径7.7 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。

13 47.1/8 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ4.0 口径16.6 高台径7.8 。高台につり下げ用紐穴2。

14 47.1/9 「琉球古典焼」象・花文皿
 高さ3.7 口径15.8 高台径8.6 。高台に吊り紐あり。
〈注〉壺屋の陶工たちの間で「エジプト模様」と呼ばれるものの典型。

15 47.1/10 「琉球古典焼」波・鳥・花文皿
 高さ4.2 口径15.9 高台径8.2 。高台に吊り紐あり。

16 47.1/11 「琉球古典焼」人物・花文皿
 高さ3.6 口径16.0 高台径8.6 。高台に吊り下げ用穴2。

17 47.1/12 「琉球古典焼」人物・花文皿
 高さ4.0 口径15.6 高台径7.6 。高台に吊り紐。
「笛を吹く武装した兵士」の文様。典型的な「エジプト模様」。

18 47.1/13 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.6 口径15.3 高台径7.8 。「琉球古典焼」の赤ラベル。高台に吊り紐。
〈注〉船に櫓が載る。軍艦の意匠と見られる。

19 47.1/14 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.4 口径16.7 高台径9.6 「琉球古典焼」赤ラベル。高台に吊り下げ用穴2。
〈注〉船上の車上に、櫓が載る。

20 47.1/15 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径15.6 高台径8.3 。高台に吊り下げ用穴2 。「¥30」の値札がつく。
〈注〉船上に石橋が載り、その上に櫓が配される。以下、資料23まで同じモチーフ。

21 47.1/16 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径14.8 高台径7.9 。高台に吊り紐。

22 47.1/17 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径16.4 高台径8.5 。高台に吊り紐。「琉球古典焼」赤ラベル。
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23 47.1/18 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ4.2 口径15.8 高台径7.4 。高台に吊り紐。

24 47.1/19 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径16.6 高台径7.7
〈注〉船上に兵士が乗る。

25 47.1/20 「琉球古典焼」馬・蘇鉄文皿
 高さ4.8 口径18.9 高台径8.0 高台に吊り紐。
〈注〉着飾った軍馬に蘇鉄はミスマッチだが、ほほえましい文様。

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26 47.1/33 荒焼菓子皿
 高さ8.2 口径22.2 高台径10.1
〈注〉指で両縁を内側に折って、アクセントをつける。器面に施されているのは、マンガン釉か。

27 47.1/34 魚・軍艦文花生け
 高さ29.8 胴径12.5 口径8.6 底径6.4
〈注〉器面の色使いは前記資料26と同じ。

28 47.1/35 荒焼爪楊枝入れ
 高さ4.8 胴径6.3 口径4.3 底径4.5
<注記>器面の色使いは前記資料26・27と同じ。3作品とも同一職人もしくは同一工房の作と考えられる。

 以上が、わたしたち確認できたバロン男爵のコレクション(沖縄陶器)である。他に下記の作品が、資料棚の一角から見つかったので付記する。

29 988.40.16上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利
 高さ15.3 口径3.2 胴径7.3 底径6.4
〈注〉白化粧を施した器面の片側に沖縄島、反対側に獅子の文様を張りつけた「タックワーサー」の技法による日本酒用徳利。薄い飴釉と緑釉が文様と口部に施されている。

30 67.36.123 張り子玩具・ホートウ グワ ー
 高さ8.5 長さ13.5 幅6.3
〈注〉紙製の張り子の鳩。玩具としてつくられたものである。

B.若干の考察

 「古典焼」については、あまり研究が進んでいない。一般的な理解としては、1983年4月発行の沖縄タイムス社編『沖縄大百科事典』記載の翁長自修の解説が、簡にして要を得ているので、全文を引用させていただく。

  大正時代から昭和の初期にかけて壺屋で焼かれた陶器の一種。古美術商のあいだでは 〈黒田焼〉ともよぶ。当時の沖縄をエキゾチックな眼でとらえた外来趣味の強い焼物。
 おもに寄留商人の注文によって作られ、本土市場に出された。花瓶や徳利などの壺類が多い。高台の内側には、たいてい〈琉球〉の刻印がある。大部分が、掻落の技法で、当時、陶工のあいだでエジプト模様と呼ばれていた図柄(笛を吹くエジプト人や象に、唐草を配した図柄)などが器全体に彫り込まれている。一部には、焼き上げたあと着色をして、過剰な装飾を施したものもある。

 この分類でいくと、パリ国立人類博物館所蔵で今回確認できた上記資料28件中22件、すなわち、資料1 ~3 、資料8 ~25、資料27が「古典焼」ということになる。ただし、その中で高台の内側に「琉球」の刻印があるのは1点もなく、一方その刻印があるのは、伝統的な壺屋焼の作品である資料7 「三彩皿」である。資料8 から資料25が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」に当たる。
 「古典焼」についての評価は、低い。もっとも早い時期のものとしては、昭和13年12月から15年にかけて沖縄を4度訪れた柳宗悦が昭和17年に書いた「現在の壺屋とその仕事」である。その中で、次のように書いている。

 尤も私達が現在の壺屋で感心している作品は、近頃琉球の品として名を広めた所謂「古典焼」と称するものではない。今ではこの名を有つ焼物は生産額が相当に大きく、どこの工房でも作っているほどである。だがこの「古典焼」なるものは実は今から十年ぐらゐ前に、黒田と云ふ骨董商が計画し、それが偶々當つたと云ふまでで、殆ど琉球の特色はない。今では手法や技術などには、見るべき点があるまでに発達してはきたが、併し模様の題材が琉球とは縁が薄く、且つ装飾がいつも過剰で醜いものが多い。特に安物は、あとで着色したりするので、一層いかものの感じがする。とにかく伝統的な沖縄のものではなく、外来趣味が多く、沖縄の焼物史の中で、涜れた一章を残すものと云っていい。

 「手法や技術など」で「見るべき点があるまでに発達して」きた作品として、たとえば那覇市立壺屋焼物博物館に展示してある3点などを指摘できようが、パリ国立人類学博物館所蔵の上記資料8 ~資料25などは「装飾がいつも過剰で醜いもの」に該当しよう。
 しかし、「古典焼」が登場するにはそれなりの歴史的な理由があった。そのあたりを沖縄県立博物館の津波古聡レポート「壺屋と古典焼」(『沖縄県立博物館紀要』第18号、1992) は、次のように指摘する。

 壺屋の陶器は、廃藩置県後、下絵の顔料であるコバルトの導入以外技術的な変化はなかったが、磁器製食器(「スンカン」と呼ばれる「瀬戸地方を中心に全国的に大量生産の磁器」)の移入による苦境は古典焼の製作に追い立てていった。このふたつの出来事は、逆に壺屋にあたらしい図柄と加飾法をもたらしていくことになる。エジプト模様や貼付・盛付・掻落としなどの加飾法は壺屋にとって新鮮なものであった。

 古典焼の影響について、その正の部分を正当に評価した一文である。津波古の論考は、今のところ「古典焼」に関する唯一のもので、参考になる。
 パリ人類学博物館のコレクションは、ほとんど「掻き落とし」の作品で、わずかに資料29「988.40.16 上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利」に「盛付」の技法が見られるだけである。しかし、津波古がいうように「古典焼」の「盛況」によって定着した技法は、沖縄で初めて人間国宝に認定された金城次郎はじめ多くの陶工に引き継がれ、現在にいたっている。否、盛り付けや掻き落としなどは、現在では壺屋焼に欠かせない技法なのである。

 それでは、パリ国立人類学博物館所蔵資料の意義はどこにあるのだろうか。
 まず第一に、翁長が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」と説明し、柳が「安物はあとで着色したりするので、一層いかものの感じがする」とこき下ろした製品がまとまって見つかったことである。それだけ評価が低いがために、逆にわたしたちはこの種の製品を従来見たことがなかった。

 第二に、資料の一部に値札がついていて、当時「民藝」あるいは「琉球古典焼」の名で売り出されていた壺屋の焼物の相場がわかることである。資料20「『琉球古典焼』軍艦文皿」には、「\30」の値札がついていて、「安手」の製品の市場価格がわかる。資料1 「魚文・帆船文急須」は、「古典焼」に加えてよい作品だが、つくりは壺屋の伝統そのままである。「\100」の価格がついている。一方、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」の値段は「\210」となっている。こちらは伝統的な壺屋の赤絵の技法によるもので、前者と成形方法は近いが、価格は前者の倍以上である。推測に過ぎないが、このサキヂューカーより完成度の高い資料6 「赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿」などは、その1.5 倍ないし2倍近い値札がついていたのではないか。

 ところで、件のフランス外交官が訪沖した昭和14年は、民芸運動の理論家であり、実践家であった柳宗悦が沖縄を訪れたのと同じ時期でもある。資料1 「魚文・帆船文急須」や、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」に「民藝」の文字を記したラベルが貼られていることから、この頃から「郷土色」の濃い工芸品を「民芸」の名で製作・販売していたことがわかる。柳宗悦は、彼のいう「民芸」と違う意味や形でこの語が一人歩きしている姿を、民芸の聖地と考えていた沖縄で目の当たりに見た。そのことに対する複雑な思いが、あるいは「古典焼」に対する評価の裏にひそんでいたのかもしれない。焼物だけでなく、それに付された数枚のラベルから、当時の「工芸産業」の実相が見えてくる。もうひとつの意義は、そこにある。
 以上述べた4点の意義は、いずれも同コレクションが昭和14年に入手されたことが明確であることに基づいている。

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ルーブル美術館遠景

※ルーブル美術館の中近東の陶磁器コーナーで撮影した資料である。「掻き落とし」と呼ばれる技法や文様表現が「古典焼」に酷似しているので、批判覚悟で掲載する。
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