パリにある国立人類博物館に、一連の沖縄陶器コレクションがある。
その概要については、すでにヨゼフ・クライナー教授が報告しておられる。教授によれば、これらはもともと「Baron Guy 男爵」のコレクションである。男爵は外交官だったフランス人から入手したとされる。この外交官が1939(昭和14)年に沖縄を訪れた際に手に入れたもので、32件ある。番号は「47.11 から47.1.48 」まで。一部に尚(順)男爵による「マーク」があるという。(Josef Kreiner(Ed.) Sources of Ryukyuan History and Culture in European Collections, 1996,Germany)。
わたしたち(川平博一・渡名喜明)は1999年1月8日、同博物館を訪れ、クライナー教授報告の「Baron Guy 男爵」コレクション「32」件のうち、28件を確認できた。以下に掲載するのは、その目録である。調査は、同館のCristine Hemme 女史のご協力によるものである。女史のご好意でコレクションの目録もコピーさせていただいたが、諸般の事情でその紹介は別の機会に行いたい。
その他に、資料棚から壺屋焼の徳利1点と紙製の張り子人形1点も確認できたので、録の最後に追加した。
以下では、同館所蔵の沖縄陶器について、概要を述べることにする。「47.1/21-1 」以下は、資料添付の番号であり、寸法単位はcmである。なお、尚順男爵の「マーク」入りの作品は見当たらなかった。
資料目録と注記
1 47.1/21-1 魚文・帆船文急須
高さ9.3(蓋まで) 最大径9.3(口先まで) 底径5.7
「民藝 琉球特産館作」の印刷赤ラベルあり。「\100」の価格ラベル付き。
〈注〉いわゆる「長太郎焼」といわれる技法による。全体に黒釉を施した後に、線彫りで文様を描き、文様の地を掻き落とす「掻き落とし」の技法による。胴部を上下二段に分け、上部に魚と帆船、下部に波を描く。蓋の裏側は白化粧をして後、透明釉をかけている。高台に銘はない。「琉球特産館」の所在などは不明。
2 47.1/22-1 魚文・帆船文サキヂューカー
高さ5.7 最大径14.2( 口先まで)
〈注〉泡盛を入れる器で、平たい急須の形をしている。内部に飴釉を施す。胴部は面取りになっていて、技法・文様は前記1「魚文・帆船文急須」と同じ。同一職人の作と考えられる。高台に銘はない。
3 番号なし 魚文杯
高さ2.7 口径4.4 高台径2.1 (以上平均)5個。
〈注〉上記資料2 「魚文・帆船文サキヂューカー」とセットと考えられる。
4 47.1/23-1 赤絵菊文サキヂューカー 高さ6.8 最大径14.7( 口先まで)
「民藝 琉球特産館作」の赤ラベルあり。「\210」のラベル付き。口一部欠損。表は緑・黄の釉薬も。内部は透明釉。
〈注〉白化粧を施して透明釉をかけ、一度焼上げてから、赤・黄・緑などで上絵付けを施し、再度焼いて仕上げたもの。蓋裏や底部にも白化粧をかけ、透明釉が施される。典型的な壺屋焼の技法である。菊花や幾何文などの筆使いは達者で、熟練した陶工の作品と考えられる。
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventrylightpreview.jsp?time=1339577937154#
5 47.1/24 赤絵菊・幾何文カラカラ
法量計測漏れ。赤の他に緑・青・黄の施釉。注ぎ口・口回りにも赤釉。胴部面取り。
〈注〉前記3 と技法・文様が似通っていて、同一作者かとも見られるが、使用の痕跡(底部の汚れ)がある。高台に銘なし。
6 47.1/1 赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿
高さ7.2 口径27.7 底径10.0 青・黄の施釉もあり。
〈注〉白化粧に透明釉をかけて焼いた後、赤絵を施す。牡丹や菊、鳳凰の筆致が見事で、当時の職人の技がハイレベルであったことをうかがわせる優品である。裏にも赤絵の文様が施される。今回調査した作品の中で群を抜く優品である。
7 47.1/2 三彩皿
高さ6.4 口径25 高台径10.1 高台内に「琉球」の判、高台につり下げ紐用穴2有り。裏は黒釉を施す。
〈注〉現在の壺屋焼でもよく見られる技法。白化粧の上にコバルトと飴釉で斑点文をほどこす。壁にかけることを意識した紐用穴の存在も、食器としての本来の用途に加えて、壁飾りとしての用途を意識していたことを示す。
8 47.1/3 「琉球古典焼」魚文皿
高さ3.5 口径17.6 口径16.6 高台径8.1 。「琉球古典焼」の赤ラベルが貼られる。高台につり下げ紐用穴2有り。
〈注〉線彫り・掻き落としによる魚文皿。高台に銘はない。以下、資料25までの20枚が同一技法で、大きさもほぼそろっていることから、同一職人あるいは同一工房の作品と考えられる。1000度以下の低火度で焼き、絵の具類で色を施したと見られる。高台に紐でつり下げるための穴もついているが、作品としての完成度は低い。安手のお土産品としてつくられたと推察される。「琉球古典焼」のラベルには上下に帆船、下部に魚文が木版風に表現される。
9 47.1/4 「琉球古典焼」鳥文皿
高さ4.0 口径16.6 高台径8.1 。高台につり下げ紐用穴2有り。
10 47.1/5 「琉球古典焼」魚文皿
高さ2.9 口径16.6 高台径9.0 。高台につり紐。
11 47.1/6 「琉球古典焼」鳥花文皿
高さ4.0 口径16.2 高台径8.4 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。高台につりひもあ
り。
12 47.1/7 「琉球古典焼」鳥文皿
高さ3.7 口径14.7 高台径7.7 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。
13 47.1/8 「琉球古典焼」魚文皿
高さ4.0 口径16.6 高台径7.8 。高台につり下げ用紐穴2。
14 47.1/9 「琉球古典焼」象・花文皿
高さ3.7 口径15.8 高台径8.6 。高台に吊り紐あり。
〈注〉壺屋の陶工たちの間で「エジプト模様」と呼ばれるものの典型。
15 47.1/10 「琉球古典焼」波・鳥・花文皿
高さ4.2 口径15.9 高台径8.2 。高台に吊り紐あり。
16 47.1/11 「琉球古典焼」人物・花文皿
高さ3.6 口径16.0 高台径8.6 。高台に吊り下げ用穴2。
17 47.1/12 「琉球古典焼」人物・花文皿
高さ4.0 口径15.6 高台径7.6 。高台に吊り紐。
「笛を吹く武装した兵士」の文様。典型的な「エジプト模様」。
18 47.1/13 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.6 口径15.3 高台径7.8 。「琉球古典焼」の赤ラベル。高台に吊り紐。
〈注〉船に櫓が載る。軍艦の意匠と見られる。
19 47.1/14 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.4 口径16.7 高台径9.6 「琉球古典焼」赤ラベル。高台に吊り下げ用穴2。
〈注〉船上の車上に、櫓が載る。
20 47.1/15 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.8 口径15.6 高台径8.3 。高台に吊り下げ用穴2 。「¥30」の値札がつく。
〈注〉船上に石橋が載り、その上に櫓が配される。以下、資料23まで同じモチーフ。
21 47.1/16 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.8 口径14.8 高台径7.9 。高台に吊り紐。
22 47.1/17 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.8 口径16.4 高台径8.5 。高台に吊り紐。「琉球古典焼」赤ラベル。
23 47.1/18 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ4.2 口径15.8 高台径7.4 。高台に吊り紐。
24 47.1/19 「琉球古典焼」軍艦文皿
高さ3.8 口径16.6 高台径7.7
〈注〉船上に兵士が乗る。
25 47.1/20 「琉球古典焼」馬・蘇鉄文皿
高さ4.8 口径18.9 高台径8.0 高台に吊り紐。
〈注〉着飾った軍馬に蘇鉄はミスマッチだが、ほほえましい文様。
26 47.1/33 荒焼菓子皿
高さ8.2 口径22.2 高台径10.1
〈注〉指で両縁を内側に折って、アクセントをつける。器面に施されているのは、マンガン釉か。
27 47.1/34 魚・軍艦文花生け
高さ29.8 胴径12.5 口径8.6 底径6.4
〈注〉器面の色使いは前記資料26と同じ。
28 47.1/35 荒焼爪楊枝入れ
高さ4.8 胴径6.3 口径4.3 底径4.5
<注記>器面の色使いは前記資料26・27と同じ。3作品とも同一職人もしくは同一工房の作と考えられる。
以上が、わたしたち確認できたバロン男爵のコレクション(沖縄陶器)である。他に下記の作品が、資料棚の一角から見つかったので付記する。
29 988.40.16上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利
高さ15.3 口径3.2 胴径7.3 底径6.4
〈注〉白化粧を施した器面の片側に沖縄島、反対側に獅子の文様を張りつけた「タックワーサー」の技法による日本酒用徳利。薄い飴釉と緑釉が文様と口部に施されている。
30 67.36.123 張り子玩具・ホートウ グワ ー
高さ8.5 長さ13.5 幅6.3
〈注〉紙製の張り子の鳩。玩具としてつくられたものである。
B.若干の考察
「古典焼」については、あまり研究が進んでいない。一般的な理解としては、1983年4月発行の沖縄タイムス社編『沖縄大百科事典』記載の翁長自修の解説が、簡にして要を得ているので、全文を引用させていただく。
大正時代から昭和の初期にかけて壺屋で焼かれた陶器の一種。古美術商のあいだでは 〈黒田焼〉ともよぶ。当時の沖縄をエキゾチックな眼でとらえた外来趣味の強い焼物。
おもに寄留商人の注文によって作られ、本土市場に出された。花瓶や徳利などの壺類が多い。高台の内側には、たいてい〈琉球〉の刻印がある。大部分が、掻落の技法で、当時、陶工のあいだでエジプト模様と呼ばれていた図柄(笛を吹くエジプト人や象に、唐草を配した図柄)などが器全体に彫り込まれている。一部には、焼き上げたあと着色をして、過剰な装飾を施したものもある。
この分類でいくと、パリ国立人類博物館所蔵で今回確認できた上記資料28件中22件、すなわち、資料1 ~3 、資料8 ~25、資料27が「古典焼」ということになる。ただし、その中で高台の内側に「琉球」の刻印があるのは1点もなく、一方その刻印があるのは、伝統的な壺屋焼の作品である資料7 「三彩皿」である。資料8 から資料25が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」に当たる。
「古典焼」についての評価は、低い。もっとも早い時期のものとしては、昭和13年12月から15年にかけて沖縄を4度訪れた柳宗悦が昭和17年に書いた「現在の壺屋とその仕事」である。その中で、次のように書いている。
尤も私達が現在の壺屋で感心している作品は、近頃琉球の品として名を広めた所謂「古典焼」と称するものではない。今ではこの名を有つ焼物は生産額が相当に大きく、どこの工房でも作っているほどである。だがこの「古典焼」なるものは実は今から十年ぐらゐ前に、黒田と云ふ骨董商が計画し、それが偶々當つたと云ふまでで、殆ど琉球の特色はない。今では手法や技術などには、見るべき点があるまでに発達してはきたが、併し模様の題材が琉球とは縁が薄く、且つ装飾がいつも過剰で醜いものが多い。特に安物は、あとで着色したりするので、一層いかものの感じがする。とにかく伝統的な沖縄のものではなく、外来趣味が多く、沖縄の焼物史の中で、涜れた一章を残すものと云っていい。
「手法や技術など」で「見るべき点があるまでに発達して」きた作品として、たとえば那覇市立壺屋焼物博物館に展示してある3点などを指摘できようが、パリ国立人類学博物館所蔵の上記資料8 ~資料25などは「装飾がいつも過剰で醜いもの」に該当しよう。
しかし、「古典焼」が登場するにはそれなりの歴史的な理由があった。そのあたりを沖縄県立博物館の津波古聡レポート「壺屋と古典焼」(『沖縄県立博物館紀要』第18号、1992) は、次のように指摘する。
壺屋の陶器は、廃藩置県後、下絵の顔料であるコバルトの導入以外技術的な変化はなかったが、磁器製食器(「スンカン」と呼ばれる「瀬戸地方を中心に全国的に大量生産の磁器」)の移入による苦境は古典焼の製作に追い立てていった。このふたつの出来事は、逆に壺屋にあたらしい図柄と加飾法をもたらしていくことになる。エジプト模様や貼付・盛付・掻落としなどの加飾法は壺屋にとって新鮮なものであった。
古典焼の影響について、その正の部分を正当に評価した一文である。津波古の論考は、今のところ「古典焼」に関する唯一のもので、参考になる。
パリ人類学博物館のコレクションは、ほとんど「掻き落とし」の作品で、わずかに資料29「988.40.16 上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利」に「盛付」の技法が見られるだけである。しかし、津波古がいうように「古典焼」の「盛況」によって定着した技法は、沖縄で初めて人間国宝に認定された金城次郎はじめ多くの陶工に引き継がれ、現在にいたっている。否、盛り付けや掻き落としなどは、現在では壺屋焼に欠かせない技法なのである。
それでは、パリ国立人類学博物館所蔵資料の意義はどこにあるのだろうか。
まず第一に、翁長が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」と説明し、柳が「安物はあとで着色したりするので、一層いかものの感じがする」とこき下ろした製品がまとまって見つかったことである。それだけ評価が低いがために、逆にわたしたちはこの種の製品を従来見たことがなかった。
第二に、資料の一部に値札がついていて、当時「民藝」あるいは「琉球古典焼」の名で売り出されていた壺屋の焼物の相場がわかることである。資料20「『琉球古典焼』軍艦文皿」には、「\30」の値札がついていて、「安手」の製品の市場価格がわかる。資料1 「魚文・帆船文急須」は、「古典焼」に加えてよい作品だが、つくりは壺屋の伝統そのままである。「\100」の価格がついている。一方、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」の値段は「\210」となっている。こちらは伝統的な壺屋の赤絵の技法によるもので、前者と成形方法は近いが、価格は前者の倍以上である。推測に過ぎないが、このサキヂューカーより完成度の高い資料6 「赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿」などは、その1.5 倍ないし2倍近い値札がついていたのではないか。
ところで、件のフランス外交官が訪沖した昭和14年は、民芸運動の理論家であり、実践家であった柳宗悦が沖縄を訪れたのと同じ時期でもある。資料1 「魚文・帆船文急須」や、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」に「民藝」の文字を記したラベルが貼られていることから、この頃から「郷土色」の濃い工芸品を「民芸」の名で製作・販売していたことがわかる。柳宗悦は、彼のいう「民芸」と違う意味や形でこの語が一人歩きしている姿を、民芸の聖地と考えていた沖縄で目の当たりに見た。そのことに対する複雑な思いが、あるいは「古典焼」に対する評価の裏にひそんでいたのかもしれない。焼物だけでなく、それに付された数枚のラベルから、当時の「工芸産業」の実相が見えてくる。もうひとつの意義は、そこにある。
以上述べた4点の意義は、いずれも同コレクションが昭和14年に入手されたことが明確であることに基づいている。
ルーブル美術館遠景
※ルーブル美術館の中近東の陶磁器コーナーで撮影した資料である。「掻き落とし」と呼ばれる技法や文様表現が「古典焼」に酷似しているので、批判覚悟で掲載する。