「死ね」「死ね」言ってるか~い? | Joon's blog

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科学的根拠はありませんが、人は誰かに恨まれるほど早く死ぬものです。
逆の言い方をすれば、遅かれ早かれ、いずれ死ぬのであれば、誰しもが少なからず恨まれながら生きているという事です。
つまり、世の中全てに愛されている命なんてないんです。

俺ッチの周囲の人間が死んだ時の事。
その人の不平は常に、かつ至る所から聞こえ、それが表すように、大勢から嫌われているどころか恨みを買っていました。
で、その人が急逝したの報。
生前には、「あんな奴、さっさと死ねばいいのに」くらいの悪態をついていた連中の中には、悲しんだり泣いたりする者もいました。
“死ね”と言っていたにもかかわらず、実際に死んだ瞬間に手の平を返す……これって、取り繕いを通り越して、ズルいとすら感じるんですよ。

神様はいるものだと、俺ッチは考えます。
誰かに対し、一度でも“死ね”と願ったからには、万人に対し公平である神様は、帳尻を合わせながらも、これを聞き入れてくれるはずです。
標的(?)である人間が自分より先に死ぬのって、ある意味、自分の願いが叶ったって事なんだよね。
そんな願いを叶えてやったのに悲しまれたのでは、神様もさぞかしバツが悪いでしょう。

いくら死んだからって、生前の行い全てが美化されたり帳消しになるはずはないと、俺ッチは考えます(語彙の少ない人間が言いがちな脅し文句、“死んで詫びろ”という言葉は、何の解決にもならないだけでなく、自己満足にすらならない浅はかな言葉です)。
だから俺ッチは、一度でも恨み言の対象とした人間が死んだところで悲しみません。
悲しむくらいなら、相手を理解しようと努力すれば良かったじゃないかと。
涙を流せるくらいなら、相手を許せる大らかさを身に付けときゃ良かったじゃないかと。
既にいなくなった相手に対し、そんな自分の至らなさを今さら、しかも一方的にチャラにしてもらおうとするのは卑怯。
そんな人間には悲しむ権利なんてないんです。

だから、せめて“死ね”という言葉を安っぽく使わないようにしないと。
誰かしらに迷惑を掛けながらも生きていられるのは、赦しがあるから。負い目があるからこそ寛容になれる……はずなんですよね。
“死ね”という言葉は、自分の器がどれほどのものかを量れる機能もあるのかもしれませんね。

…と、美しく締めてはみたが、一方的に大量の迷惑メールを送りつける連中に対しては、1秒でも早く“死ね”。