ちょっと昔の話をします。
1972-1983年の夕方18時、NHKで放送された、SFの名作(筒井康隆や眉村卓のジュブナイル作品が原作)がメインの少年ドラマシリーズという(30分だったかな)ものがありました。
あの有名な「時をかける少女」もこれが初ドラマだったはず。
そして、その僕が少年の頃、感動した作品には、萩尾望都さんの『11人いる!』と『スター・レッド』があります。
世間一般では、この『11人いる!』の方が圧倒的に評価が高いのですが、
僕は『スター・レッド』の方が好きです。
SFとしてのスケールの大きさ、設定の見事さは、
萩尾望都さんの制作時の年齢の違いもあり、こちらの方が上だと信じております。
でも、本作は続きが気になる余韻が残る終わり方なんですが、
萩尾望都さんが続編を描かれることはないでしょうね。
ところで,話題がここで替わります。
いつもの、小説創作の話です。
取り組んでいる小説現代新人賞向け原稿は、昨日からプラス2枚の、合計6枚に突入しました。
パチパチ、パチ,拍手。
なぜ、たった6枚で、拍手しているかと言うと、
いつもの書けない病が発症していたからです。
「何書いていいか、わからないから、書けない」の声が内心世界でアラートされて、
負けそうになってました。草
ところが、ダメ元で、原稿をWORDで開いてみて、字面を眺めていたら、
スルスルと続きが2枚書けました。
朝、出かける前の忙しい時間の、僅か20分の作業でした。
前記の「わからない」ままなのに、二人の人物の会話を「聴いてみた」だけ、その観察した様子を書き記しただけです。
あっ、と思いました。
これ、山本周五郎と同じ、二人人物描写だな、と気づきました。
前に書いたかどうか、あやふやですが、
僕の叙述スタイルである「書き手ファースト感覚」とは、雰囲気で呼称してたんですが、
それって主人公なり、特定の人物へひたすらに思い入れして書く「一人ファースト感覚」なんじゃないか。
そう,はっきりと認識できたわけです。
今まで、さんざんに「書き手ファースト」の単語は、何年も振り回してきましたが、
たぶん、この認知や、ここまで具体的な言語化は初めてだと思います。
もちろん、周五郎の『さぶ』も英ニの一人語りシーンはあったでしょうが、
そこでも、必ず誰かに向かっての恨みだったりするんですよ。
何度も書きますが、「会話と地の文が相互に誘導する」山本周五郎の読みやすいリーダービリティ溢れる文体は、
対話する相手があってこそなんですよね。
(これ、【対人間・関係ファースト感覚】と名づけようと思います)
もちろん、僕も会話は書いてきましたが、でも、それはストーリー展開優先で、読み手ファースト感覚にはなってなかったと思います。
何より、状況をちゃんと設定してやれば、
そのシーンは、人物たちでちゃんと生成されるので、「何を書いたらいいか、わからなくても書けること」のメリットは、僕には計り知れないです。
これで、少しは、7/31〆までの、小説現代長編新人賞250枚が書けそうな確率が上がりましたね。www
