さて、いよいよ,今日の夕方に神戸空港から、北海道へ旅立ちます。
初めての放送大学の北海道スクーリングになります。
講義は「新時代の太宰治」(中村三春・北海道大学名誉教授)です。
今、絲山秋子『沖で待つ』(芥川賞)を改めて読み返しています。
だからか、今朝,変な夢を見たました。
絲山作品での、奇妙で、でも魅力的な人物像があることの影響だと思うんですが。
夢自体は支離滅裂な内容で、過去の人物たち、友人や、仕事関係の人、バドミントン関係の若い子たちなど既知の知り合いで、どこへ旅行してました。
それ自体の組み合わせからして,時代もグループもあり得ないんですよ。笑
しかも、その際に様々なイベントへ参加して、なぜか、こちらに仮装やパフォーマンスを求められているものだったんです。
馬鹿げている。草
で、話を戻すと、この絲山作品では、表向きは出来事の推移を語る風で、実はキャラクター紹介に筆が移っていると感じました。
もちろん、人物情報へ途中から集中して描いてはいる。
あまりに自然と語られるから、〈鳥の眼〉感覚でアンテナを立てていないと、
そのキャラクター性への筆致は意識できないと感じるほど。
そして,何よりもそれが〈読み手へのパフォーマンス演出〉も兼ねているんだよね。
ここを強めすぎると、ライトノベル的なキャラ立ち暴走しそうだけど、絲山さんはゲシュタルト表現として、文字で語らない隙間を用意してある。だからか、ライトノベルとは違う印象がある。
しかも、そのキャラクター性には、その人物の刻々と変わる状況も付帯している。
人物は、その性格や,仕事などの情報だけでなく状況も読み手に知らせなくてはいけない。
その際に台詞や心内文で、個性も同時に伝えられる。
それが絲山作品や文学の魅了になっているんだ、と、きづきました。
何より,自分がそうした人物情報と,状況との併用書きもしていない。
(もちろん、全く書いて無いわけでは無いんですが)
ひたすら、ストーリー展開を優先して、物語の状況も展開に,従属するものばかりを書いてきた気がするんですね。
やはり、【ストーリーを繋げて天下させなきゃ恐怖症】に罹患して書いている。
そう感じるものでした。
さて、その,放送大学の、太宰治こそキャラ性の名手でしたよね。
この【恐怖症】を打破するヒントをもらえる予感がするんですよ。
シンクロニシティだと思っています。
今日も午前中、仕事です。
