ふと気づいた。
もし、「山月記」が展開しているのではなく、ある種のエッセイ的な〈枠小説〉として、過去のできごとを回想して語っているとだとしたら。
謎解きで、読み手へ発見させているだけだとしたら、どうだろうか?
中島敦の文体そのものが、〈語り手枠〉からのエッセイ的な構造なのではないか?
展開は語り手が行っているだけで、適宜、シーンで主人公たちを描いているだけなのだとしたら?
自分もエッセイとしてなら、いくらでも悩まずにすぐ書けるのだから。
それが他の小説構造でも、実は部分的にでしろ使われていないか?
例えば、絲山秋子の叙述スタイルなどは、完璧にエッセイ風の語り構造であり、そんな展開だったことは過去に痛感しているから。
ある意味、井戸川さんの詩や小説もそうなんじゃないか。
だとしたら、僕自身が、重度の〈展開恐怖症〉に罹患しているから、そう見えないだけなんじゃないか。
元々、先日、ここで紹介した「文学こと始め」教室での教授内容のメインは、
そうしたエッセイから小説や詩の文芸を、つまり各個人が持たれている物語を、記憶の中、生活の時間から掘り出し、解放してやる。
それが文学になるんだ、という趣旨のものなんです。
それで、若い子たちに、今まで何百人と教えてきた。
その結果、実際、去年度の国民文化祭の「詩の祭典」で、1席の内閣文部大臣賞を始め、入賞者5人中3人が入賞してみせてくれている。
いざ、自分のことになると、〈展開恐怖症〉を発動しまくりなのは、馬鹿げているよね。草
