皆さんも、もうお気づきでしょうが、僕の中には、多くの存在がいる。
美術系(デッサンやら彫塑やら)の創作者、映像・アニメーション・絵本系の視覚物語の創作者、詩人、小説家、教育者が混在している。
しかも、それら全ての表現対象を勉強として学ぶし、研究や講座を「面白い」と吸収してしまう学ビストな、雑駁・研究分析者もいる。
全部が微妙にリンクして、一つが変化すると、その効果が他者たちへ波及して、いい意味のドミノ倒しで成長変化してしまう。
後退はしない。
今、昨日も書いた放送大学の「映画芸術への招待(’25)」関連の講座関係のオンライン・ミーティングも、この火曜日にあって、
その関連課題やらで研究心が非常に盛り上がってしまっている。
加えて、この間の「現詩研」の詩の研究会で、知己を得た佛教大学の権田先生から、「井戸川射子論」の小冊子を頂いたので、
それを詳しく読ませてもらう。
まとまった井戸川論を読むのはほとんどないから、すごく面白かった。
権田先生に返信するために、井戸川さんの中也賞詩集「する、されるユートピア」を、本格的に分析読みした。
ちょこちょこ読み直してはいるが、全身全霊で分析読みするのは、3年ぶりぐらいになる。
今は、ちょうどスナイダーの「SAVE THE CATの法則」のまとめ感覚が残っているから、すぐ〈鳥の眼〉感覚に入れる。
しかも、小説創作で身につけた〈舞台の見られる感覚〉も会得しているから、3年前とは、全然違う読み方ができた。
3年前はまるでわからなかった、その構成の秘密や描く描写の凄さが驚くほどわかった。
詳しくは書けないけど、そのキーワードは〈隠されたまま〉だった。
見えない部分を残す表現が痛いほど目に残った。
今日の冒頭で書いたように、研究者目線が創作表現の実践感覚と僕はリンクしているから、
今、取り組んでいる投稿する詩の原稿の書き方へもろに影響してくる。
また関連して、井戸川さんの小説「この世の喜びよ」も読むと、今、自分が完全に、詩のモードの中へ浸かっていることがよくわかる。
小説をすごく言葉が溢れていると感じるから。
そこに省略がない、のが不思議がる感覚。
(井戸川さんの詰め詰めの余白なしの書き方のせいでもある)
井戸川さんは余白を残すと、それで省略がされていると思って誤解してしまっているから、詰めているのかな。
行間なしの詰めるからこそ、より〈隠された〉感覚が引き立つのかな。
今、放送大学の「映画芸術への招待」の批評感覚で講座(=映像動画)を観ていると、
当たり前だけれど、自然と「観る・見られる」感覚と、フレームから「舞台の内と外感覚」になる。
普段、例えば、アニメを観て、単に物語を味わっているときには、面白さ以外に価値判断を持てない。
小説と詩創作の時は尚のこと、その両方がない。
自分だけしかないんだ。
この「無い」ことに気づかなかった。
「気付いてない」ことも忘れてしまいそうだから、気をつけよう。
この「舞台」感覚のさらに外側に、スナイダーの〈ログラインのまとめ紐〉が垂れ下がっている気がする。
ミステリーの伏線置きもそれと同じ〈舞台の外袖〉に紐づけられているのだろうか。
だから、僕はちゃんとしたミステリーをまともに書けなかったのだろうか。
あと、こうした小説創作の理解がなかなか小説実作には反映しづらいのが現状だが、詩には即座に反映して実作できるのが嬉しい。
今、ここ2・3日、ちょうど、「現代詩手帖」への投稿する詩の作品に取り組んでいる。
当然、井戸川作品の分析読みの成果や、権田先生の評論や、そして、スナイダーの「SAVE THE CATの法則」のまとめ感覚やら、
さらには放送大学の映画芸術関連の知見や刺激も加えた、ごった煮状態での、創作になる。
果たして、どんなスープ味なのかは、自分でも正確にはわからない。
でも、今まで、少なくとも’25年12月までの僕とは、かなり異質の作品になっている。
それも8割ほどできた。
今日中に完成できるだろう、と思う。
さらに今、この記事を書きながら気付いた。
この感覚で、詩をどんどん書いてゆけば、11月末までに第3詩集は編めそうな気がしてきた。
そうそう。
それは2年前の第2詩集とは、全く違う詩集になる気がする。
確かな変容と成長があるからね。
あらら、不思議。
一昨日までは、ぼやーっと、なんとなくでしか第3詩集のことは考えてなかったけど、今、確信を持てた。
創るべきだな、と。

