*放送大学のWAKABAへ新入生ログインのこと
ようやく、今日、放送大学のWAKABAへ(継続)新入生としてログインできました。
これが、そのスクショです。
*4/1分
ちゃんと、第1学期に登録した8単位が表示され、そのうちの面接授業2つ計2単位がコース科目として「履修中」表示されています。
赤字で「14」と残り単位が表示されて、前に書いた「うっかり卒業」を避ける警告数字に、僕には見えます。笑
こいつを、ギリギリ最終年度の一つ前の5年後の第1学期に「2」にして、さらに第2学期の登録時に「1」表示させる、
と同時に、「履修中・3単位」あたりにすれば、ミッション成功かと考えております。
*参考までに、3月分を貼っておきますね。
さて、今日の天気はあいにくの雨混じりなんですが、お天気アプリで小雨表示の10時ごろに兵庫学習センターへ行って、
新しい学生証と学割票を手に入れてこないといけません。
*ひさびさに詩を書くモードへ入った、そこで見た詩の最新世界とは
ひさびさに、本気で詩を書くつもりで、最近の現代詩の最前線を感じようと他人の詩を読み返しました。
’26年にユリイカの詩人になった、ながさきふみさんの受賞後の第1作を読み返したり、
つい、最近発表された、最新の第31回中原中也賞を受賞された成清朔さんの「現代詩手帖」に掲載された詩群を読み返したりします。
ながさきさん、すみません、以下、マイナスなことを書きます。
こと、この作品に関しては、どこにポエジーがあるのか、その在りどころが全くわかりません。
散文詩ではなく、ただの散文にしか見えません。
その前年のユリイカの新人を受賞した湖中千絵さんも散文詩だった。
僕には同じような、エッセイ的なものにしか見えないが、選者の井坂洋子さんのお好みというと叱られるだろうか。
若い女性のひとり語り。
別に、詩は万人に向けて書く必要がないから、それでも一向に構わない。
僕も、たぶん、これまでの詩にはひとり語りのものがあるから。
多様な人物が登場する、群像劇な小説との大きな相違点がそこなのだから、ある意味、王道だ。
でも、それだけを繰り返している限り、現代詩は(もう滅んでいるけれど)さらに孤立を深めて、悪い意味での滅びの、個人間の暗号的な孤絶世界へ没入し、
すっかり他者を拒絶して自己満足化してゆくだろう。
僕にとっての散文詩の理想は、吉野弘さんの「I was born」であり、一部の黒田三郎さんのものかな。
また、こうした散文は、同じ軽い言葉でも、メロディーにアシストされる歌詞のポピュラー性とは、全く違う世界へ、と導いてほしんです。
もちろん、そうした淡い歌詞的な日常生活の中にある言葉の詩たちの、ライトバースの世界もあるけど、それらはそれらで共感はかちえても、
歌詞たちの訴求力には到底およびはしない。
その分、表現するのは、他者へのライトバースの詩は、オシャレさや現代性以外での訴求がすごく難しい分野になると僕は思う。
さて、中原中也賞の成清朔さんの詩は、本人の受賞インタビューでは最果タヒさんの影響を受けた、という言及の通り、どこか影響がある。
その意味では現代詩らしい、難解さと言葉の捻りと密度がある。
男性だからか、「わたし」が、「わたし」が個人を語らない。
受賞詩集も、講評が掲載された「ユリイカ」を注文中で、まだちゃんと読んでいないから、ここまでしか言えない。
何よりも、その掲載時の現代詩手帖賞の2名の中には入っていないんですね。
急に、難しいことを言うけど、今の僕は「人の眼」「虫の眼」「鳥の眼」三つが文学を書くには必要だと思っています。
僕の今までの詩は、「虫の眼」がメインで、少しぼんやりと、そこへ「鳥の眼」がリンクする感じだったんだ、と思っています。
若い女性の詩は、年寄りな僕には「私びと(人)の眼」に寄りかかりすぎているように感じます。
今の僕には、「人の眼」の中に、「他者から(見られる)の眼」や「観ている人(観客)の眼」を含んで、感じられます。
きっと、違う詩作品になる予感があります。




