ふと、気がついた。
本をワクワクしながら読めなくなっていることに。
いや、本を読むのは好きです。
文章が、文字があれば読まずにはいられない活字中毒者なのは、変わらない。
マンガは、ワクワクしながら読めるな。
この間、読んだ須賀敦子の,エッセイも分析しながら読むときも、分析せずとも読むときに同じようにワクワクしたな。
でも、小説を読むと、特に純文学系はストーリーを追わないから、ワクワク感は感じられない。
作者の意図や、伏線の回収具合を確認してしまう。
この作者の、癖は,何? 文体の特徴は?
その〈企み〉は成功している、失敗している、そんな価値判断している。
もう無意識レベルで、分析してしまう癖、条件反射だね。
で、ふと思った。
これ、小説を自分で書くときも同じことをしているな、と。
つまり、〈読者〉がいないじゃん。
それって、本の作者と、会話している。
「本と、対話してなくない?」
〈読者〉を復活させないといけない。
その方策を考えよう。
たぶん、小説を書く最終の、その解決策の放送なら、はっきりしている気がする。
登場人物、それぞれ個人と「対話」することだな。
〈どうしてどうして〉過去へ遡るエンジンと、
〈どうしたい、どうしたい〉未来への,期待エンジンとを、
人物たちに,尋ねることだね。
なぜ、それがわかるかって?
エンタメ系小説を書くときは、人物たちに尋ねられてるから。
これも【ストーリー展開の呪縛】な気がする。
全体しか見れない、〈場〉や人物を大事にしていない。
もう太宰治賞には,出さないと決めた、この原稿だけど、
もともとストーリー展開は追わない作品のつもりだったから、
人物へ、さっきの二つのエンジンで尋ねてみよう。
書き手がワクワクしながら、書かないと、読み手もワクワクしないのは道理なのだからね。
昨日、帰りに見た、夕茜雲。
綺麗だった。
ワクワクしました。笑
