いつからだろう。本をワクワクしながら読めなくなったのは。 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

ふと、気がついた。

本をワクワクしながら読めなくなっていることに。


いや、本を読むのは好きです。

文章が、文字があれば読まずにはいられない活字中毒者なのは、変わらない。


マンガは、ワクワクしながら読めるな。

この間、読んだ須賀敦子の,エッセイも分析しながら読むときも、分析せずとも読むときに同じようにワクワクしたな。


でも、小説を読むと、特に純文学系はストーリーを追わないから、ワクワク感は感じられない。

作者の意図や、伏線の回収具合を確認してしまう。

この作者の、癖は,何? 文体の特徴は? 

その〈企み〉は成功している、失敗している、そんな価値判断している。


もう無意識レベルで、分析してしまう癖、条件反射だね。


で、ふと思った。

これ、小説を自分で書くときも同じことをしているな、と。

つまり、〈読者〉がいないじゃん。

それって、本の作者と、会話している。


「本と、対話してなくない?」


〈読者〉を復活させないといけない。

その方策を考えよう。


たぶん、小説を書く最終の、その解決策の放送なら、はっきりしている気がする。

登場人物、それぞれ個人と「対話」することだな。

〈どうしてどうして〉過去へ遡るエンジンと、

〈どうしたい、どうしたい〉未来への,期待エンジンとを、

人物たちに,尋ねることだね。


なぜ、それがわかるかって?


エンタメ系小説を書くときは、人物たちに尋ねられてるから。

これも【ストーリー展開の呪縛】な気がする。

全体しか見れない、〈場〉や人物を大事にしていない。


もう太宰治賞には,出さないと決めた、この原稿だけど、

もともとストーリー展開は追わない作品のつもりだったから、

人物へ、さっきの二つのエンジンで尋ねてみよう。


書き手がワクワクしながら、書かないと、読み手もワクワクしないのは道理なのだからね。


昨日、帰りに見た、夕茜雲。

綺麗だった。

ワクワクしました。笑