芭蕉を気取る訳ではないが、そぞろ神が | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

別に、芭蕉を気取るわけではないが、この10/25.26の土日に徳島へ、

放送大学の面接授業に出かけるので、そわそわが収まらない。

 

『奥の細道』の「門出」の箇所で、落ち着かないのは旅路へ誘うそぞろ神のせいだと、

芭蕉は書いたけど、それに近い感覚かな。

芭蕉の旅ほど命がけでもなんでもないのに。

昨日の,このブログでも旅の非日常性が、ある種のターニングポイントになる、

という動画を紹介したけど、文字通りそうなってしまっている。笑

 

 

 

 

 

取り組んでいる太宰治賞向けの,応募原稿は、プラス3枚ほどで、30枚弱。

微速前進、いや、匍匐前進かな。

 

でも、小説に関する考察は、

正確には、自分が長編小説が上手く書けない原因に関する考察は、ずいぶん進みました。

 

つまり、それは、僕の繰り返し述べている【ストーリー展開の呪縛】の原因について分かったということを意味します。

 

どうやら、僕の、拭っても、否定しても、理解しても、この【呪縛】から逃れられず、

どうしてもストーリー展開を考えてしまうのは、

それを実体のあるものに近い、統一されたものだと信じ切っているからじゃないかな、と気づきました。

 

もしかしたら、小説を、小説家の方々の大部分は、

統一体じゃなく、書き上げ終わってから実体化または統一化されるものとして書いているんじゃないかな。

つまり、書き始め段階における小説とは、実体も統一性もない【現象】であり、

それを集合させて、最後に【現象集合体】として統一化しているんじゃないか。

そう定義できると、気づいたわけです。

 

そうすると、打開策としては、それぞれの章を、【現象】の実体化に鋭意努力することが大切で、

全体像とか、統一性とかは第一義に考えないことだ、と思いました。

 

僕は,どうしても完成した後の、プロ作家の小説作品を,イメージしてしまい、

そこから逆算しか出来ないのでした。

そこが間違い、なんだと。

 

普段の僕は、「小説の書き方がわからないぞ」と悩んだら、

見本にしたいプロ作家の小説作品の〈全体・完成作品〉を読む。

すると、「ああ、こんな風には(完成体的に)書けないぞ。才能ないのかしら」と絶望する。

その繰り返しなんですね。

 

でも、これ、お馬鹿な僕だけのことなんでしょうか?

 

もちろん,ここまで明確に理論付けてきなくても、

章を、部分を大事にしよう、と、ほぼ正解に近い感覚では取り組んでいます。

 

でも、無駄に、まだ〈全体.・統一化体〉意識に囚われて、書けないモードに入ってしまうんですね。

 

では、その【現象】って、何?

 

例えば、雨振りなんかが「現象」の典型で、いつ振るか、いつ止むかなんてわからない、コントロールできないけど存在するものなんですよね。

実際、「雨が止む」と言う「現象」は一滴でも降らない状態なのか、晴れていても数滴だけ降る状態なのか。

そんな感覚的で曖昧で捉えどころのないのが、僕が現象に対して持つイメージです。

 

文字通り、小説を書くってのは言葉の雨を、特定の空間だけ、降らせるような感覚です。

絶対、晴れてないとダメとか、数滴なんて「狐の嫁入り」は雨降り認定しないぞとか、

そんな統一体を目指してはいけないんだ、とやっと納得できました。

 

頭の中に、いろいろなイメージやアイデアはいくつも用意できているので、

今回の太宰治賞向け作品を、完成にだけは辿りつけると思います。

 

匍匐前進でも、章を一つずつ完成させればいいんです。

集合体像はまだ,朧気ですがらそれなりに出来かけてもいますから。

 

頑張ります。