一昨日は、「蟹と水仙の文学コンクール」向けの詩を、新規で書いた。
選者が、憧れの詩人である荒川洋治先生だから、毎回、力を入れて書いているが、
今まで5回応募するも一度も入選せず、佳作にすらなれない。
高校の部では、詩の書き方を教えた高校生が何人も入賞しているのに、全然ダメだ。笑
今回がFINALとのことで、思いっきりヘンテコりんな、ラップ調のものを投函してしまう。
まあ、また落選だろうから、もうこれでいいよ。
昨日も、ふと思い出して、応募しかけて放置してあった詩、2篇のことを。
で、ユリイカの方は全面改稿、現代詩手帖は一部だけ改稿で仕上げる。
久しぶりに書く詩は、とても楽しい。
あまり、呻吟せずにポエジーのまま描くからだ。
そんな風に書いて応募して、落選したら、その後、日にちが空いて、数ヶ月後に時は結構、色々考えて呻吟する。
結果、その再生詩が入選する場合が多い。
つまり、きっと無駄な表現が多いのだろう。
でも、書いてすぐだと無駄がまったくわからない。
一度、数週間、放置してから、推敲して応募する癖をつけないといけないなあ。笑
ところで、
連日書いている、また小説創作の話題です。
取り組んでいる文學界新人賞の去年の落選作150枚を改作中ですが、今、4枚目です。
なんだか書き進めていると、主人公の名前だけ一緒で、全部、新作になりそうなんですが……。笑
とにかく、書き手ファーストでなく、読み手ファーストな〈どうなるどうなるエンジン〉を稼働させて、
読み手が(非エンタメ的なですが)楽しめることを、常に留意して書いています。
と同時に、自分が現代詩を書くときのような社会性・時代性を背景において書くように心がけています。
違う言い方をしたら、どこか象徴性の卵・表現を行間に置いていきつつ、書いているんですね。
結局、大江健三郎に感銘を受けたのは、その背景にある象徴性やメタファー的な表現だったのですが、
それらって、もともと僕の詩風が象徴詩で、「社会性・時代性を反映しているとかモチーフだね」と教室の好評やら、
コンクールの選評で言われるのと同質なものだったんです。
だから、もともと手元にあったものを使っている感覚があります。
この辺、大いに矛盾してます。
前は、書き手ファーストで、何かすごいこと書こう、書かなくっちゃと思いこんで、ひたすら悩んでいたくせに、
自分の持っている「現代詩カード」は未使用でした。
今は、読み手ファーストで、自分の書き手感覚よりも読み手を常に意識して描いているのに、
現代詩を書くときの自分の感覚カードをバリバリ使っています。
上手くいけば、これから7ヶ月で、5本、100枚以上の長編小説を書きます。
前記のように、詩が量産できるのと同じ原理なので、たぶん、同じような形で。
もちろん、どう書くかは日々苦しみますので、平常心ではなく、苦しさとの戦いが大部分なんですが。
それで、今年は無理でも、来年1年も同様に書ければ、かなり凄い結果を出せる予感がします。
なんせ、今までが全然、ダメダメだったですからね。
今年の最初三ヶ月と比べたら、天国にいるようなものなので、集中力を出さないといけません。
50枚までが、特に最初の20枚がしんどいですよね。
