「小説 野性時代新人賞」の2次稿を書きつつ、今日は読み倒す日にする。 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

さて、この間から書き上げたことを報告している「小説 野性時代新人賞」の2次稿だけど、まだ全面的に全てを読み直していないけど、

書き忘れたアイデアや部分をそえて、不足していると感じた伏線を、前の箇所に挿入・添加している。

当初の227枚から、今、プラス4枚で、231枚になる。

しばらく、この形でやって、あと、一気に改作・推敲したら、それを3次稿として、最後にプリントアウトして最終稿にするつもりだ。

一応、今のところ、締め切りの8/29までは、余裕があるし、デジタルでなく、紙で郵送するつもり。

 

で、今日は、基本、読み倒す日にする。

理由は、純文学の原稿を書くために。

 

どういうことか、と言うと、

ようやく、自分の中で、長編小説を書く感覚、フォーマットができた、とほぼ確信しています。

(面白いことに、それまで、なんとなく書けていた短編小説にも転用というか、感覚的に統一できました。

 当たり前か。笑)

 

でも、それが「人」を読者として想定し、楽しませること主眼の、ややエンタメ系に偏っている自覚があるから、

それを、純文学系の、「人ならざるもの」へ捧げる感覚に、少し延長・転換しなくちゃいけない。

でないと、今、やろうとしている、文學界新人賞の去年、応募して1次選考も通らなかった150枚原稿の、全面書き換えができないから。

 

たぶん、この「人ならざるもの」へ書く感覚は、現代詩を描く際に、体験済みです。

これは、この文言の発案者の、中原中也賞と芥川賞のダブル受賞者である、井戸川射子さんも、詩と(純文学)小説について両方、合わせて述べた台詞なので、

間違ってないと感じます。

 

ただ、井戸川さんはエンタメ系小説は書かれない、と思うので、今の僕の立ち位置とは違います。

 

でも、エンタメ系と純文学系とでは、細部の書き方が大きく違うのも事実なので、その違いを自分の中に確立するために、既存の純文学小説を、読みた倒し、分析し倒す必要があると考えています。

 

で、昨日も触れた、今度8/23・24の土日にある京都芸術大学の芸術学舎の「大江勘三郎」講座に備えて、短編を当てようと思います。

モチベーションがあるから『大江健三郎自選短編』を、その講義で扱う短編4篇から分析読みしよう、と考えたわけです。

 

大江を真剣に読むのは、40年ぶりかもしれない。

典型的な戦後左翼思想作家だ、とわかった日から一切読まなくなったから。

 

でも、僕の確立した書き方。

どう〈どうなるどうなるエンジン〉を働かせているか、人物群渦の配置と引き伸ばし方、段落単位の構成具合と文章感覚、章立てのまとめ方、といった観点から、分析すればどうなるか。

 

読み取り、学ぶところはどこか、というわけです。

 

 

 

たぶん、資質的に大江健三郎は、全然、参考にならないと思われるので、あくまでも反面教師です。

他に、藤野可織と、村田沙耶香、村上春樹の割に幻想系でモチーフが近い作家が参考になると思われるので、

それらを間に挟みつつ、文体が大好きな朝吹真理子も読み込みたいです。

 

 

 

ちょうど、佛教大学OLCの「「ノルウェイの森」を読む」講座の見逃し配信を視聴していると、

今回の長編小説フォーマット感覚が呼応して、深まるのが自分でも分かりましたからね。

 

今は、とにかく、どんどん小説を書きたい、です。

(いや、書き出すと、また描くのに苦しむんですがね)