さて、この間から書き上げたことを報告している「小説 野性時代新人賞」の2次稿だけど、まだ全面的に全てを読み直していないけど、
書き忘れたアイデアや部分をそえて、不足していると感じた伏線を、前の箇所に挿入・添加している。
当初の227枚から、今、プラス4枚で、231枚になる。
しばらく、この形でやって、あと、一気に改作・推敲したら、それを3次稿として、最後にプリントアウトして最終稿にするつもりだ。
一応、今のところ、締め切りの8/29までは、余裕があるし、デジタルでなく、紙で郵送するつもり。
で、今日は、基本、読み倒す日にする。
理由は、純文学の原稿を書くために。
どういうことか、と言うと、
ようやく、自分の中で、長編小説を書く感覚、フォーマットができた、とほぼ確信しています。
(面白いことに、それまで、なんとなく書けていた短編小説にも転用というか、感覚的に統一できました。
当たり前か。笑)
でも、それが「人」を読者として想定し、楽しませること主眼の、ややエンタメ系に偏っている自覚があるから、
それを、純文学系の、「人ならざるもの」へ捧げる感覚に、少し延長・転換しなくちゃいけない。
でないと、今、やろうとしている、文學界新人賞の去年、応募して1次選考も通らなかった150枚原稿の、全面書き換えができないから。
たぶん、この「人ならざるもの」へ書く感覚は、現代詩を描く際に、体験済みです。
これは、この文言の発案者の、中原中也賞と芥川賞のダブル受賞者である、井戸川射子さんも、詩と(純文学)小説について両方、合わせて述べた台詞なので、
間違ってないと感じます。
ただ、井戸川さんはエンタメ系小説は書かれない、と思うので、今の僕の立ち位置とは違います。
でも、エンタメ系と純文学系とでは、細部の書き方が大きく違うのも事実なので、その違いを自分の中に確立するために、既存の純文学小説を、読みた倒し、分析し倒す必要があると考えています。
で、昨日も触れた、今度8/23・24の土日にある京都芸術大学の芸術学舎の「大江勘三郎」講座に備えて、短編を当てようと思います。
モチベーションがあるから『大江健三郎自選短編』を、その講義で扱う短編4篇から分析読みしよう、と考えたわけです。
大江を真剣に読むのは、40年ぶりかもしれない。
典型的な戦後左翼思想作家だ、とわかった日から一切読まなくなったから。
でも、僕の確立した書き方。
どう〈どうなるどうなるエンジン〉を働かせているか、人物群渦の配置と引き伸ばし方、段落単位の構成具合と文章感覚、章立てのまとめ方、といった観点から、分析すればどうなるか。
読み取り、学ぶところはどこか、というわけです。
たぶん、資質的に大江健三郎は、全然、参考にならないと思われるので、あくまでも反面教師です。
他に、藤野可織と、村田沙耶香、村上春樹の割に幻想系でモチーフが近い作家が参考になると思われるので、
それらを間に挟みつつ、文体が大好きな朝吹真理子も読み込みたいです。
ちょうど、佛教大学OLCの「「ノルウェイの森」を読む」講座の見逃し配信を視聴していると、
今回の長編小説フォーマット感覚が呼応して、深まるのが自分でも分かりましたからね。
今は、とにかく、どんどん小説を書きたい、です。
(いや、書き出すと、また描くのに苦しむんですがね)



