昨日は、「角野栄子のあたらしい童話大賞」への作品を応募してしまいました。
例の如く、落選作の全面改稿なので、全然、大変ではなかったのですが、
’24年度にもう童話で短編は、「ニッサン童話と絵本GP」以外に応募しないぞ、と決意して、自分へ約束していたのに、すぐ破ってしまいました。笑
この「ニッサン童話と絵本のGP」は過去、5回応募して見事、落選続きです。
結構、その年々でベストに近い自信作もいくつか送りましたが、一切入選もしません。
実は、この賞には’08年の最も初期に公募コンクールへ応募した2つのうちの1つなんですね。
(もう一つは、「森林のまち童話大賞」でした)
ですから、すごく思い入れがあります。
まして、去年は僕の直接の知り合いが、見事、大賞のGPを射止めて、出版されることになりましたから、
間接的に、僕も入選したいなあ、と思ってしまった訳です。笑
でも、前記したように、自分には「童話ジャンル」に不向きなんだ、と17年間やりきって、とことん身に沁みましたので、
「小説が書けるようになってからじゃないと、封印する」の誓いは、まだ生きています。
人間と同じで、自分がいくら好きでも、合う合わないはあるんだ、と悟りました。
僕の自由奔放な発案姿勢は、制限する文学ジャンルには不向きなんですよ。
だから、川柳や短歌は毎月、作って地元の新聞へ投稿しても、季語の縛りがきつい俳句はいくら似ていても、基本やりません。
(もちろん、できなくはないんですが)
それと、どうやら童話を書くときに、自分の子ども時代のことを投影したい欲求があるようで、それが怨念のように縛るので、
純粋にファンタジーを描くのを邪魔しているみたいですので。
今回の落選作は、女の子が主人公の、一連の〈チィちゃんシリーズ〉の一つです。
連作で、さまざまな話を何作も、未完成も入れれば10作近く書いています。
どれも落選していますが。笑
今回、その誓いを破ったのは、創作系SNSのNoteで、角野栄子バナーでこの賞を宣伝しているのが、たまたま目に入って、
「書きたい」「書こうぜ」と心の声が聞こえた気がしたので、意固地にならずに、シンクロニシティだな、と思って応募しました。
何度も書いているように、当初の年度初め(=元旦の計)には入ってませんでしたので、正直、書く気になったこと自体に、少し自分でもビックリでした。
児童文学の長編は、一応、来年3月の講談社児童文学新人賞へだけは応募する予定にはなっています。
いくつも児童文学・長編の落選作が手元にあるので、おそらく3月までの8ヵ月の間に、150枚以上の中・長編小説をエンタメ・純文学織り交ぜて、3-5作は書き上げるはずなので、
きっと児童文学を書く力も関連して、アップしているはずだ、改作できるはずだ、と見通しを立てているからです。
さて、7月も14日で、じき半月を過ぎます。
小説現代長編新人賞も、何か書かないと絶対、応募できません。
昨日、無理くり、1行だけ書きました。
でないと、いつもの「停滞期モード=怖くて書けない状態」から脱却できないな、と思ったからです。
(追記:考えたら、この「停滞期」状態は小説を創案する際に、無数の可能性と無限対峙して、拡散思考しているからだと気づく。
作品は、拡散とは逆の、どんどん収束してこそ作品世界が決定され、書き連ねられるもの。
僕がダメダメ、というよりも、理(ことわり)的に無理なことをしているんだと気づく)
まだ、僕の心の中には、「全体像がくっきりと浮かばないといけない」とか「すごい作品を描かない意味がない」の自分縛りがあります。
それこそ【ストーリー展開の呪縛】に起因する者たちですね。
やはり、村上春樹の『風の歌を聴け』の冒頭の一節、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
を、
自分へ必死で言い聞かせて、書き始めるしかない。
この作品ほど、何十年も読み返す作品は、ほとんどない。
特に、こうして書けない状態になったときは、いつもこのセリフを言い聞かせている。
実は、群像新人賞を受賞した本作の時、村上春樹も小説の書き方(がわからずに)を模索していたんだ、と説を、
今、受講している佛教大学OLCの日高芳樹教授の講義「村上春樹「ノルウェイの森」を読む」を受けた時、驚天動地に近い目覚めを体験しました。
「村上春樹=憧れの文体=名小説家」
この図式が、僕の中に刷り込まれていました。
村上春樹は、世界のムラカミ以前からすごく好きな作家で、こんな風にオシャレな文体で書きたい憧れの対象でしたから。
世界のムラカミ、になってから、特に自分が童話・小説系を創作し始めてからは、影響を受けるので、極力、読まないようにしてきました。
上記の図式が、魂レベルにあったからですね。
でも、言われてみると、そうなんです。
この『風の歌を聴け』は物語性を否定して、ある意味、エッセイ的であるし、「世界観+エピソード」構造なんですね。
研究感覚でなく、実作感覚で、「魂レベルで知覚・改変」できました。
ある意味、絲山秋子的だったんですね。
いつか、いや、近々、太宰治賞向け作品なりの純文学系で、その手の文体系でも作品を書くと思います。
でも、今は、小説現代はエンタメだし、物語系での勝負に徹しないといけません。
やれやれ。笑
