昨日は、通院後、帰宅して、200字という超短編だけど、ふくしま超短編脚本賞への作品を仕上げる。
だいたいの案は会って、書き始めていたんですが、なんせ400字ぐらいにはなるので、どう200字に収めるかに四苦八苦。
とにかく仕上げましたが、これはこれで面白かった。
そんな会心の出来ではないから、落選するだろうし、もと原稿の400-600字はいつかどこかでまた別の作品の種にしてしまおう、と思いました。
やっぱり、作品を描いたり、特に仕上げるのは、達成感があって、すごく好きです。笑
それに、うん、うん、そうだね。
自分の分身割合が少ない方が自由に書けるし、客観的になれる気がして、面白くも感じました。
でも、昨日は、やはり疲れが取れないままでした。
ところで、文京学習センターでのラジオ制作班で一緒のグループになった女性3人にも「縁」を感じました。
小説をどう書くかの話をすると、すごく興味を持ってもらえて、この話はやっぱり訴求力があるなと感じます。
つまり、是が非でも受賞という結果を出して、こうした方々へ文学創作の種を広める、バトンを渡さないといけない、と強く思いました。
以下は、自分の個人メモ日記からの転用です。
* * * * * *
もう機は熟しているんだよね。
Noteの紹介をしたから、受賞すればコンタクトが取れるかな。
その為にも、一つ目の頂点に登りつめるしか、もう道はないな、と思う。
ふと気づいた。
あの43年前だかの’82年に買った「現代詩手帖 特集号」の荒川洋治さんの黒田三郎「紙風船」の解説。
あれがその34年後の’16年に実は決定的な、詩を書く出発点だったんだ。
(どれだけ長い後の伏線回収なんだ。笑)
それまでに作り上げた、「ずれ・変化・発見」の小説原理を転用するきっかけになり、詩が書けるようになった。
また今思えば、その詩作体験がまた小説へフィードバックさえて、より一層の深い読解分析の礎になったことに気づく。
あの3原理の血肉化・身体化はあそこから始まったんだ。
そのことを荒川洋治先生に告げる機会を掴まないといけない。
審査員をされておられるのは、小説公募なら太宰治賞、非公募では川端康成文学賞(短編)だ。
なら、太宰賞は、力入れて頑張らないといけない。
うーん、何でだろう。
今回のスクーリングが決定的なシンクロニシティ的な意義・意味合いが隠され、付与されている感がしてならない。
しかも一つじゃなくて、いくつも複合的に広がる「糸」が発芽して、四方へ伸びてゆく感じがある。
洋治先生とはもちろん、もう一度会って、話す予感があるんだけど、他の人とも、そんな気がするんだよね。
わからない。
もう僕の手を離れて、事態は進行してゆく感がある。
「矢は放たれてしまった」感だ。
そうか!
息を吐くように、詩のタネを見つけてしまう身体化された今。
だからこそ、洋治先生の言うように、〈自分にとっての究極の詩〉を一度書くべきなんだ。
今まで、もう一段階上がるのに、どうすればいいか少し困ってた。
そのうち探してたら、「見つかるさ」と思っていた。
いや違ったんだ。
「自分の中」に「見つける」んだな、と思った。
自分の手元に探し物はある。
正に、チルチルミチルの青い鳥か。
今日は朝から仕事です。
うーん、見逃し配信の視聴に追われてます。
まるで8月31日の小学生みたいに。(東京ラブストーリー、だね)